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じぇらしぃ #1/7

 〇〇出版の今度の担当は、入社三年目とかいう若い娘なのでした。
 せいぜい教育してやってくださいと前任者から先日電話があって、近々後任を連れてご挨拶にうかがいます、といった。

 新人をあてがうとは、またずいぶんと俺も舐められたものだと、正直思わないではありませんでした。
 O女子大の修士といいますから、学歴は大したものですが、日本有数の一流出版社であれば珍しくもないし、文系の修士上がりということは、大方気位ばかり高くって融通の利かない頭でっかちなのは目に見えている。若い娘といったって、才女じゃ器量に期待できるはずもなく、担当ひとつでこちらの作物の出来不出来が本質的に変わるものではないにしろ、それでは執筆意欲は湧きそうにないし、いよいよ俺は落ち目の自分を甘受せざるを得ないのかと思って、なんとも遣る瀬ないのでした。どうせなら、可愛いおきゃんに突っつかれてみたかったと口惜しい限りなのでした。

 ところが、いい意味で私は予想を裏切られることになったのです。
 前任者のKは、旧帝大出の隙のないインテリゲンチャでした。私の原稿をその場で速読みすると、じつに的確に文法の誤りを修正する。ファクトの裏付けも早い。これは傑作、とこちらが内心得々としていると、この展開はなんとかいう作家のなんとかいう作品と同じです、と沈着冷静に指摘して、「これでは盗作と変わりません」といって原稿をつっ返してくる。こういうのは、仮に不備がわかっても、締め切り前なんだし、一旦社に持ち帰ってから、いいにくそうに「ここ、非常に面白いんですけど、念のため調べたら、××という作品のプロットによく似ているんですよね……」とかなんとか時間をおいた上で知らせるくらいの気遣いがあってもいいんじゃないかと私なんかは思うわけです。
 だからなんというか、Kみたいな担当は、たださえ学歴コンプを持つ私は苦手というか、萎縮する相手なのでした。

 締め切り過ぎても平身低頭しながら、「センセイ、お願いしますよ〜」と猫撫で声で泣きついて、作家をおだてる、なだめる、なんてのは恐竜時代の担当像。今や作家は債務者で、担当は債権者というのが適当でしょう。見限られればこちらに後はなく、向こうは新しい物書きをでっち上げるだけ。成り手ならいくらでもあるわけです。
 それにしても間違いを一々指摘されるのもなんだかで、私も主にネットで入念にファクトチェックするようにはしているんですが、なんだかWikipediaばかり引用してるような気がしてきて味気ない。もはやデビュー当時のように、おのれの想像力ばかりを恃みには書けないのがなんとももどかしいこの頃ではありました。

 後任の担当者は***と名乗った。ここではTとしておきます。一目見るなり私は思わず、あっ、と小さく叫んだかもしれません。というのも、TはO女子大出と聞いて私の思い描く痩せぎす眼鏡の売れ残りでは全然なく、はしこい猫を思わせるようなヤングレディーだったからです。肩に届かぬショートボブはやや赤みがかっており、中学生かと目を剥くほどに小柄なのでした。どういうわけか、そのときの私の深層心理を代弁しますと、「こんなおきゃんを待っていた!」なのでした。これぞ想像力の源泉と、おのずと期待は高まった。

 TはTで、開口一番、私の書く物の長年のファンだと告白した。ファンが高じて大学では日文(日本文学)を専攻し、私の作品を題材に卒業論文、ひいては院に進んで修士論文と書き継いだと。
 生きてる作家を研究対象にするのはどうかな、と私が至極真っ当なことをいって水を差すと、
「センセイは、あのときも私にそうアドバイスされましたが、満更でもないとお顔に書いてありました」
 Tがいうには、私は学生時分の彼女から二度までもインタビューを受けているとのこと。それも一対一で。一度は私がその昔缶詰になるのに利用していた駿河台の山の上ホテルの地下のワインバー、今一度は新宿三丁目にある喫茶店「どん底」。これには私はまったく記憶がなく、おイタをしていなければいいがと内心ヒヤヒヤでしたが、Tいわく、深い苦悩に打ちひしがれて疲労困憊していながらも終始私は紳士的で、あの時ほど大人の男の人に憧れたことはなかったと熱弁振るうのでした。ちょっとこの娘、誰かと勘違いしてやしないかとやや興醒めしてKをチラと見やると、いつもは能面もさぞやの彼が、うっすら笑っているように見えた。
「大好きなセンセイの担当をさせていただけるなんて、今、私は人生のアクメです!」
 それからも延々と娘は問わず語りにしゃべりつづけて、気がつけば、KもTも妻の誘いに敢えて抗わず、夕餉の食卓を共にして、さらにはその後の酒席も大いに弾んで、散会となったときには零時を回っておりました。

「物書きの家に挨拶に来てそのまま直帰とは、昨今の出版社もよほど柔軟になったものだね」
「あら、あなた、今日のことは最初から最後まで向こうの手のうちでしょうよ」
 妻はいうのでした。
「あなたももうすぐ還暦です。遅咲きの作家に、もう一花咲かせてやりたいという〇〇社とKさんの粋な計らいじゃありませんか」
「するとなんだい、あの若い娘は」
「あなたの好みをわかって連れてきた、奥の手ってやつでしょうよ」
「いやいや俺は、ああいう小柄の猫顔は……」
「あら、だってあなた小柄の猫顔、お好きじゃない」
「猫は好きだが、猫顔は」
「嘘おっしゃい」
「いや、だってほら、お前はさ」
「狸顔?」
「そうそう。だからね。猫じゃないのよ、俺の好みは」
「あのTって娘さん、十年前のあなたの火遊びのお相手とよく似ていてよ。気がつかないとでも? まったく、Kさんも人が悪い」
 そう言って妻は笑うのでした。

 折しも家の三毛猫が尻尾を立てて居間に入ってきて、ソファに座る私の膝に飛び乗るのでした。臆病者なので、来客のさいには決まって妻か私のベッドで丸くなるのが常。これが起き出してきて、妻と私の会話を承知のように、私を仰ぎながら甘えた鳴き声を発する。
「タンヌーよ、ママが俺をいじめる。どうにかしてくれろ」
 三毛猫の顔を両手に包むと、もみくちゃにして接吻の集中砲火を喰らわす。誤魔化そうにも誤魔化しきれないこの高揚感。
「いじめるだなんて、人聞きの、もとい猫聞きの悪い。私はかなり寛大な妻だと思いますよ。あなたのあんなデレデレ顔見たのは、ほんと久しぶりだわ。ちょっとは面白いもの、書けるんじゃないの」
 そういって、ふだんは酒を嗜まない妻が、これでもうなん杯目かのワインを自分のグラスに注ぐのでした。

つづく

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