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娘のためのパヴァーヌ

 三女には生まれつき右手がなかった。 
 手首から先がなかった。

 その「ない感じ」は、右手の先からいまにも消え入ろうという、その経過の中途のように見えることがあった。すると私は激しく狼狽えるのである。行くなと叫んで引き留めようとする衝動に駆られるのである。こちらの恐慌などおかまいなしに娘が顔を上げ、にこりと笑いかけてこようものなら、私は涙ぐまずにはいられなかった。

 手のない腕の先端に、傷口のふさがれたような痕跡はなかった。皮膚と肉に覆われてぷっくり丸くなっていて、そこがそうであるのは、娘においてもはや自然であった。そのすべらかさは膝小僧同様にたいへん愛らしかった。私はよくその部分を両手に包んで接吻したものだった。
 生まれた当初は妻も私も欠損を嘆いたはずだが、娘が小学一年生になったいまとなっては、往時の感情は、とりわけ負の感情など忘れている。もはや欠損は欠損でなく、正常な器官の範疇であって、ましてや彼女を障害者として認識させられるなど、日常生活においてまずなかった。左手ひとつで、娘はなんでも器用にこなした。

 娘の利き腕はおそらく右手だった。
 いまでもドアや蛇口のレバーの上げ下げは右で行う。しかし箸を持ったり鉛筆を持ったりするのは左手。それなりの苦労をともなったはずだが、現在彼女が左手を操るその自然さにおいて、そうした紆余曲折はなかったかのごとくである。
 幼稚園に通い始めてからは塩化ビニル製の義手を装着するようになった。もっぱらほかの園児を驚かせないための配慮だった。夏は蒸れるので、それを嵌めるのを娘はとても嫌がった。

 幼稚園の年長になったとき、三女は長女次女と同じようにピアノを習いたいといいだした。夕食後に食卓を囲ってクラシックを聴くのが一家の習いだったのが、いつか食事が終わると中学生の長女は黙って席を立ち、小学五年生の次女もあとに続いて、いまや食後の音楽を嗜むのは妻と私と三女の三人だった。嗜むといっても音楽そのものを話題にすることはなく、聴きながら妻も私も仕事の続きをするか本を読むかで、娘はもっぱら絵を描いた。妻はドビュッシーとラヴェルを好み、私はベートーヴェンのソナタを好んだ。いずれもピアノ曲ばかりだったのは配慮に欠けたともいえるが、先に述べたように日常において娘の障害が意識されることはなかったのである。その晩、画紙を青く塗りつぶしながら、三女は夢見るようにいった。
「みお、これを、ひきたい」
 おりしもオーディオからは、ラヴェルの《亡き王女のためのパヴァーヌ》が流れていた。

「わたしがみおさんの右手となりましょう」
 長女と次女の師であるピアノ講師は、そういって三女にピアノを教えることを快諾した。
 三女は誰よりも熱心にピアノに取り組んだ。三人のうちで一番指の形がきれいだと講師はしきりに褒めた。そして習い始めてから一年が経ち、小学一年生の初夏に迎えた初めての発表会で、彼女はパッヘルベルの《カノン》に連弾で臨んだ。ふつう、講師との連弾では生徒が主旋律を受け持つが、娘が弾くのはむろん通奏低音。娘と講師は左へ右へ酩酊するように弾きながら大きく上体を揺らして、息もぴったりでじつの母娘のようだった。おそらくは講師のはからいだろう、娘は数箇所で和音の即興を奏でた。年端もいかぬ少女が、大人の弾く単調な主旋律を盛り立てていく。弾き終えて、講師はこらえず両手で顔面を覆って嗚咽し、すぐにも気を取り直して左に座る娘の頭をそっと胸に抱いた。
 ピアノ講師に子はなかった。

 梅雨入りしてまもなかった。
 夕食後のれいの音楽鑑賞のおり、妻は職場で行われた健康診断の結果をおもむろに私に差し出した。「E」の文字が迫りきて、すぐさま私はそれが不吉な徴であるのを見て取った。固唾を呑んで詳細を目で追っていく。ただ一つの項目を除いてすべて「A」判定だった。白血球の数値のみ異常値を示しており、それがために総評が「E」となるほどに深刻らしかった。しかし妻には心当たりがあるらしく、また私の手前だからだろう、いたって平気に振る舞った。不正出血のことは、私も前々から聞かされてはいた。年も年だからと忙しさにかまけて放置してきたが、明日にでも仕事帰りに病院に行ってくるよ、と妻はあっけらかんとしていった。

 子宮の筋腫が大きくなっていた。
 三女を宿す前にすでにあった筋腫だが、見つかった当初は経過観察となっていた。あれから六年を経て五センチ大に肥大して、できた場所がまたよろしくなかった。貧血がひどかった。よくもこんな数値で、と医者は目を剥いた。二週間後に出る検体検査の結果を待って、具体的にどうするか決めることになった。
「まず良性でしょう」医者はいった。「このくらいなら、腹腔鏡手術でいけるでしょう」

 子どもたちの夏休みが始まるのを見計らって、妻は大病院での手術に臨んだ。子宮の全摘出は免れた。
 かれこれ三十年近く前、同じ病院で母が子宮全摘出の手術を受けたのを思い出していた。手術が始まってしばらくして呼び出しを受けた父と私は、執刀医から銀の盆に乗せられたそれを見せられた。
「これが卵巣で、これが膣。もう少し放ってたら危なかったね」
 術後は学生の私が毎日母を見舞った。ある日に見舞うと、六人部屋の病室から女たちのさめざめと泣く音がした。恐るおそるのぞくと、同室の女たちが母の病床を囲んでいる。なにごとかと駆け寄ると、母を中心に女たちは備えつけのテレビを食い入るように見つめているのだった。テレビの画面には、おりしも特殊部隊が突入した直後のペルーの日本大使館が映し出されていた。爆音ののち濛々と煙が上がる。人質を取って立てこもる側を案じて、女たちは泣いているのだった。
 執刀医から呼び出しを受けたとき、だから私には心構えができていた。母のときと同じように、手術室の前の廊下で、ほんの立ち話のように説明を受けるのだろうと思っていたら、違った。看護師に別室に通されて、しばらくそこで待たされた。刻一刻不安は募る。なにやら眩暈に似たものを覚えて、その場に両膝を抱えて蹲りたい衝動に駆られる。三人の娘をこの場に連れてくるべきだったか。できうるなら、三人に私を支えていてほしかった。
 執刀医がようやく現れる。
 銀の盆を両手に恭しく掲げて。盆には緑色の布がかけられてあった。
 医者はマスクを取らなかった。正面の丸椅子に座るなり、「手術はうまくいきました。ご安心なさい」といった。「クマさん」の愛称で慕われる名医らしく、年齢は私と同じか少し上かで、上背はないがその愛称に違わず恰幅がよかった。
「ところで奥さんの筋腫なんですがね。これが筋腫ではなく」
 医者はいい淀んだ。
「胎盤遺残といって、産後胎盤の一部が子宮に残ることがある。奥さんのは筋腫ではなく、この胎盤遺残だったんですな。で、胎盤を切除したんですが」
 そういって机上に置いた銀の盆に向き合うと、緑色の布の覆いを外した。真っ赤なヌメヌメとした平たい肉塊が現れた。私は血が得意でなく、採血のさいに過去に気を失ったことが二度ほどあった。しかしそのとき「見なければならぬ」とおのれを鼓舞したものは、母の子宮を見たときと同じだっただろう。肉塊の中央になにやら白いものがのぞくのを私はかろうじて認めた。医者は無言のまま、盆の上のピンセットを取ってその周辺をめくるようにした。
 そこに現れたのは、小さな人の手だった。医者のうながすまま注視して、その指先に爪のきれいに生えそろっているのまではっきりと認め得た。
「たしか一番下のお子さんには生まれつき右手がないのでしたね。おそらくこれは、そのお子さんの忘れ物です。お母さんの胎盤がね、こうやって血管でがんじがらめにして、六年間養ってきたんですよ」

 娘の右手を再建するのは叶わないらしかった。それではせめてこちらで引き取りたいと、私は譲らなかった。
 かくして娘の枕元にところ狭しとならべられたぬいぐるみやらフィギュアやらの宝物に、黄味がかった液体を満たした小さな瓶が加わるにいたった。ホルマリン漬けにされた三女の右手は、それだけではあまりに凶々しいので、いつか金銀赤青のラメを瓶のなかへ投入して、スノードームのようにしてやった。いまや就寝前に飽かず瓶を矯めつ眇めつしながら、右手に紛いものの雪を降らせるのが娘の習いである。
 寝しなにときおり寝台をのぞきにいくと、娘は眠りの底へ底へと沈みながら、さぞ大事そうに瓶を胸元に抱えていたりする。そんな光景を目のあたりにすると、私は決まってラヴェルの一節を口ずさんでいる。







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