こういう小説を自分は書きたい。
ジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』をみなさんはご存じでしょうか?
ジョイスは20世紀最大といわれるふたりの作家のうちのひとり。
1904年6月16日のダブリン市民のなんでもない一日を長大なスケールの長さをもって描いています。
文体がまずセンセーショナル。
通常の小説が、読者がわかりやすいように順序だて背景説明など行うところ、まったくそういったことを無視しています。
会話文も実際のひとびとが話したであろう、脚色がまったくなされない口語体。
自分がこどものころ、小説世界に対して感じていた違和感(わざとらしい説明感?)を、完全に払拭していました。
ただし、ここからがやっかいなのですが、『ユリシーズ』は読者に作品世界について「知る」ことを、違う言い方をするのならば「学ぶ」ことを強要する作品だということです。
おわかりのとおり、読者のことを考えず、作品の背景も、会話文の脚色なども行わないということは、その小説を読んだだけでは作品世界を理解できないということです。
(現代の小説ノウハウ本で教えることとは、まったく真逆をいっていますよね)
つまり1900年代当時のダブリンの歴史や、モデルとなった登場人物の背景をなんらかの方法で調べていく必要が最低限あるのです。
そうでなければ、この小説を本当に楽しむことは出来ません。
ところで、では作品のどこに僕が惹かれるのかというと、この作品がホメロスの『オデュッセイア』を下敷きに書かれているところです。
紀元前数世紀前の、オデュッセイアの冒険譚では、現代でもよくモチーフとなるようなセイレーンや、ひとつ目の怪物キュクロプスが登場します。
1900年代のダブリン市民たちのなんでもない一日と、神話のなかの冒険譚。
どこに共通項があるのかというと『オデュッセイア』における人物やストーリーが、『ユリシーズ』の各章における設定と対応しているというところです。
僕は間テクスト性というものに興味があります。
それは、あるセンテンスの意味が、まったく異なる他の小説などのなかに登場するセンテンスとの関連性のなかで深まることです。
それは2000年近く昔の作家のものでも、もちろん関係がありません。
ちなみに『ユリシーズ 』はいまご紹介した内容だけでは、まったく足りていないくらいの仕掛けや謎に満ちた作品です。
小説の設計図なるものまで作者は用意しており、いままで無数の学者たちが研究した論文がいくらでもあります。
僕は崇高で難解な小説が書きたいわけでは、ありません。
ただ、小説世界は間テクスト性を利用するように、構造的につくりあげることで、それぞれのセンテンスがシンフォニックに響き合うものです。
そういうものを書くことが僕の目標です。
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