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ひとつの人生の中で何周生まれ変わっているのかを考えてみた episode3

さて、前回の続きです。

3週目の人生に入ります。
3週目からは、今の私の土台、といっても過言ではなく、ここでの勇気と冒険が私の軸を作ってくれたように思います。自分で勝手に5ヵ年計画をソ連時代の政策に習ってたててみたりしました。シンプルにこの5年で自分軸をつくる、と決めたという感じです。それが3週目。そしてその後は、4週目としての人生。東京やNYで社会人として試行錯誤する5,6年。とにかく失敗して、何が自分に合わないのか、得意なのか、場違いでもいいからやってみよう、そんな感じです。ココでは3周目の人生を書き綴ります。


3週目の最初の大きなメイントピックはニューヨーク。高校卒業してから東京にでて1年英語の勉強をしてから渡米。カリフォルニア州かネバダ州ラスベガスの大学にアスレチックトレーナー志望で行く予定が、NYへ急遽勝手に変更。カリフォルニアの現場に入って1週間で移動を決めた自分は、なかなか今思っても興味深い。CAはシンプルに素敵な世界だけれど「ココじゃない」と感じたから。そしてNYへロケハンのように1週間行って、決断。ただ移動や引越、学校変更にも色々と準備があることから半年はCAに滞在し、そこから自力で部屋探しから学校探し、VISA関係諸々、慣れないながらもやり遂げた。


初めてNYに上陸した場所はハーレム。ネットで見つけたお部屋が偶々そこだった。でも移動したタイミングが12月。真冬のNY、しかも慣れない黒人文化の地で、急に不安に襲われた。ルームメイトはチャイニーズアメリカンのゲイの男の子。コロンビア大学院でHIVの研究をしていて、ゲイ雑誌のモデルにもなっている子だった。電話でしか話をしていないで決めた自分もかなりのチャレンジャーだったと思うけれど、でもとても感じよくて安心したのは覚えている。他にも二人ルームメイトがいて、一人はアメリカ人のゲイの男性、もう一人はストレートの男性。男性だらけw 気にしない私も強者だけど、当時は本当に気にしなかった。ゲイとかストレートとか書くのは、本当はそこは重要じゃないのだけれど、一緒に住むにあたって安心してもらうため。みんなとてもナイスでさらに安心した。でも、アメリカ人のゲイのジョンが実はHIVだったと、後で知った。そして日常生活では感染しないことも改めて知り、身近にいるのだと思った。でもそんなこと関係ないくらいとても優しい可愛らしい人で、デートの話とか恋愛の話とか、色々話した。男女関係ないんだなって、その時改めて感じた。愛する気持ちは、性別とか関係ないのだと。そして他のルームメイト同士はそんなに仲が良いわけでもなくて、個々に仲良くなった。ある日、ジョンが熱を出して、私が買ってきたポカリだったか、何か日本の清涼飲料水を渡したら、「CHIKAが用意してくれたものなら飲む」と、相手からしたら言葉も読めない不思議な飲み物を信頼して飲んでくれたことがとても心に響いた。私のことを「Angel」とずっと後からも言ってくれていて、とても大事な友達だった。まだその頃NYに友達もいなくて、当時は携帯もなくて、ネットもAOLといって繋がるのに時間がかかって、孤独だったけれど、とても貴重な経験をしたと思っている。



NYに来て、ルームメイト、という存在は、私の場合は深く友達になれるキッカケになっていた。そのハーレムも家賃が高すぎて、ブルックリンへ引越したり、そこでまた新しい人と出会ったり、引越をするたびに出会いがあった。本当は引越をしなくてもよかったのかもしれないのだけれど、長くて2年で引越をしていた。NYから出るつもりはなかったのだけれど、引越をすることで自分なりにステージを変えていたのかもしれない。おかげで引越のプロみたいに、移動が気軽なものになっていた。

そこで多くの出会いがあった。2週目の人生で、親友に裏切られたり、でもそこで改めて本当の親友ができたりと、友達に関しては苦労していた私だったけれど、3週目では本当に人に恵まれた。年齢も性別も、やっていることも目指している事も、何もかもバラバラだったけれど、NYにいる、ということだけで、ある意味同じ匂いがしたのかもしれない。もちろん全員ではないけれど、でもどこか居心地の良さがあった。そして2週目の人生の出来事で傷ついたハートも、その恵まれた人たちによってさらに癒された。見つめ直すキッカケにもなった。本当に人との出会いに感謝した。なんて幸せなんだろうと思えた。

その一方で、「強くなりたい」そう願って2週目の人生を終えた私が、3週目の人生でトライしていたことは、「一人でなんでもできるようになる」ことだった。例えば物件探しから、諸々のユティリティ(電気とかガスとか)の手配、とか、電話線開通、とか生活の基盤となることから、学校での勉強や知らないことへの挑戦も、できるだけ一人で頑張ろうとしていた自分がいた。自分でできなければ意味がない、と信じていて、そして、勝手に孤独になった。雪が降る中、屋上に出て、空を見上げて泣いたりもした。寂しい、とも思った。でも頑張らなきゃ、と思いながら「疲れたな」と気づいた。一体私は何をしているのだろう?と。



2週目の人生で出会った心理カウンセラーの方に頂いた言葉「体験価値」を思い出した。私は「体験」をすることに価値を感じている。だからたくさんの体験をしてみよう、そう思った。でも、たくさんの体験をしてきて、自分自身が疲れてしまうなら、意味がないのでは?とも思った。

ココでの問題は、「ひとりで」なんとかしようとしていること、つまり、自分でやらないと許せない自分だ、と。自分でやらなくても大丈夫、なのだと許せるまでに時間がかかった。なんだか怠けている気がしたし、かっこ悪いと思った。それに自分の実力にならない気がした。

でも一体誰に判断してもらおうとしている?と問いかけたときに、誰でもない「自分」が許していないだけだ、と気づいた。それに、結果的に「楽しい」とか「幸せ」とか感じられていないのだとしたら本末転倒。私の一番の指針は「楽しい」のはずだ、と。たくさんの体験がしたいのも、「楽しい」と感じるためだったはずなのに、今は自分を苦しめている。それは違うんじゃないか?・・・そんな風に気づいて、それをスパッとやめることにした。私、そんなことしなくても大丈夫。そう自分にいって、それをやってみて違うと思ったらまた戻ればいいじゃない、と。


そこで最初の気分転換は、NYでバレーボールをすることだった。あんなに苦しかったバレーボールだったけれど、心から愛していたのも確かで。たまたま見つけたバレーボールチームに入れてもらい、毎週1回、夜に試合に参加するようになった。新しい仲間も増えて、「楽しい!」と感じる時間が増えた。なんなら学校よりも優先したいくらい楽しかった。男女ミックスで、日本人チームで、多少男性優位な感じは正直気に入らなかったけれどw でも十分戦えた自分がいた。どこにいてもバレーボールがあるとないとでは、人生が全然違う、とさえ思った。こんな風に思える宝物と出会えて、一生懸命頑張ってきて、最後は辛い別れだったけれど、また繋がって本当によかった、そう思えた。

本来、バレーボールからの経験でアスレチックトレーナーになりたかったのだが、美容業を選んで、NY州のエステティックライセンスを取得した。理由は、「これまでの人生の中で一番お金と時間を使ってきたものが、自分のやりたいこと」と書いてあった本を読んで、私の中で2つが浮上した。それはスポーツと美容、だった。そしてその時、10年後の自分を想像してみた。スポーツ関連で活躍する私はジャージを着ていて、アスリートと共にいるイメージ。もう一つは美容で、華やかなキラキラした自分が見えた。私、こっちがいい。そう思ったのは美容だった。基盤はカラダの健康と関係しているし、どちらも解剖学やら生理学やら同じことは勉強するけれど、「人を美しくする」ことに興味が強く湧いた。もちろん自分自身を美しくしたい、とも思った。



その結果、NYで伝統ある専門学校に入り、解剖学や生理学、衛生学から伝統的なエステティック技術ややり方などの勉強と実際にお客様を施術するプラクティカルトレーニング600時間以上こなし、試験に挑み合格。当時は英語の試験しかなく(日本語は今もないと思うけれど、韓国語やスペイン語はあった)ネイティブさえ苦戦するひっかけ問題などもあったりと、辞書一冊分丸暗記するくらい勉強した。結構大変だった。でも実技は自信があった。もちろん緊張したけれど、手先は器用な方だし、難しく感じなかった。比較的日本人って、本当器用なんだなってことも、ここで気づいた。


ライセンス取得したら仕事があるわけじゃないのは、どの世界も同じで、そこからやっと始まる世界でもある。その後、私は本来大学にも行きたかったので、急遽進路を変更し、大学へ行くことに。そこではリベラルアーツを専攻した。そして大学行きながら、バレーボールをしたり、今でいうレンタルスペースをしていたご縁のある場所:ユニオンスクエアエリア(現:CRSにて)で、初めて自分のサロンとして「千〜SEN〜」という名前でオープンしてみたり。名刺も自分で作ってみたり。2003年とかそんな時代だったと思うから、今でこそ東京でもそういう場所がたくさんあるけれど、当時はそういう概念自体がまだなかったような時代で、あまり理解はしていなかったけど我ながら面白かったと思う。新しいことを躊躇せず挑戦していたなって思う。お客様も少しずつ来てくれたり、ちゃんと少なからず学生としての範囲内で動けていたのも、今思えばよくやった、と思える。


そして「体験価値」という言葉を胸に、私はとりあえず片っ端からやってみたいことをトライアル体験していった。
せっかくNYにいるのだから、とダンスも色々スクールの体験レッスンを受けてみた。
・クラシックバレエ
・R&B
・ジャズ
・ヒップホップ
など全くついていけないものもあれば、なんとなくノリでできたものもあったり、
また中学生の時合唱部だったのもあって、歌ってみたいと思い、歌うためのボイストレーニングを受けにいってみたり。(レコーディング形式でめっちゃドキドキしたり・・・)
ある時はルームメイトがプロのフォトグラファーだったのもあって、モデルを経験させてもらったり・・・
学校では一般的なものから、フランス語のクラスや、イラストレーターのクラスだったり、オンラインの統計学のクラスとってみたり(すでにアメリカではオンラインクラスがこの頃から始まっていた)ついていけていないものだらけだったけれど、今思えば色々挑戦して体験させてもらっていたのだなと感じる。

あとこれは余談ではあるけれど、私だけの興味で、アメリカの病院に興味があって、せっかく保険に入っているのだから、と一通り受診しにいってみた。例えば、

・内科
・外科
・皮膚科
・耳鼻科
・ER(これは結果的にですが)
・眼科
・婦人科
・歯科
などなど

ここぞとばかりにいった。病院なんて今となってはほとんど行かないのだけれども、この頃はどのようなシステムなんだろう、とか日本との違いを知りたいだけの理由で積極的にいってみたりした。
一つだけ感想を言うならば、何て無機質なんだろう、という印象。日本はいたせり尽せりなんだな、と言うありがたみも感じるきっかけにもなった。
でも歯科とか耳鼻科では、自分では気づけない治した方がいい部分を発見できたりしたので、最先端医療なのかな?やっぱりと素人なので理解しきれていないけれど、体験してみて良かったと思えた。


この3週目の後半は、とにかく体験・経験をするっていうことにフォーカスしていて、いろんな人に出会い、面白そうと思えば動き、カルチャーショックとかもありながらも、NYという場所に心底惚れていった時間だったと思う。そこにいる人々は「普通」という言葉が浮いてしまうくらい個性的で、自分が何て「普通」なんだろうと落ち込むほど。。自分は一体何者なんだろう?何ができるんだろう?何がしたいんだろう?そして、私はどこへ向かっているんだろう?とそんなことばかりを悩み、悶々としながらも笑って、たくさん恋もして、自分自身を生きていた。
そして2週目までの傷跡も癒えて、温かい友情をたくさん感じられて、人生って楽しいのかもしれない、って思えてきた。

そのまま自分は何者か、はわからないまま、5年の月日が過ぎて、学生時代が終わる時、私は4週目の人生に突入することになる。


続く。





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