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北京に届いたメール

 北京を出発した飛行機が大阪国際空港に着陸。京都の国立大学へと留学に来た私にとって、生まれてはじめての異国だった。忘れもしない一九九〇年九月のことだ。

 日本語は勉強してきたが、周囲で飛び交う会話が速くて聞き取れない。緊張しながら入国審査を済ませ到着ロビーに出ると、研究室で助手をされている竹内先生と大学院生が迎えに来てくださっていたので、ほっとした。

 私たちは空港バスに乗り込んで京都に向かった。沿道には建物が密集して立ち並び、自転車は中国と違って歩道を走っている。
 夕方、北山通北側の寮に入った。寮は山を背に、田んぼが点在する住宅街の一角にあった。研究室のあるキャンパスは、北山通をわたってすぐ南側だった。

 翌朝、灰色をした研究棟の二階にある研究室に行き、指導教授の石田先生と対面した。
 先生は五十過ぎくらいで、薄くなった髪は整えられていない。首にはオニキスのループタイ紐がぶら下がっている。黒縁メガネの奥の目は一瞬こちらをじっと見つめたが、すぐさま毎日会う人に送るような涼しげな眼差しに変わった。

 午前中は研究室を見学し、ランチタイムを迎えると石田先生に誘われてキャンパスを出た。西門の外にある大衆食堂の暖簾をくぐり、小さなテーブルに先生と向かい合って座った。隣席の女性二人は、私が留学生だと気づくと、満面の笑みで話しかけてくる。
 「日本のおばさんは親切ですね!」と、去っていく彼女たちを目で追いながら私はまじめに言った。すると先生は「暇、暇だから」と言い、くすっと笑った。

 店を出て、道端の小さな本屋さんに入った。「辞書もってますか?」先生は棚のうえの国語辞典を指差して訊いた。「辞書はもっていますが、日本地図はありません」 先生は「新日本地図」を買ってくださった。その夜、新しい地図は、これから私が暮らす木造五畳部屋の古びた壁を飾った。

 研究室は私をのぞいて全員男子学生で、彼らの多くはスクーターで通学していた。石田先生も通勤手段は古いスクーターだった。毎朝先生は、赤茶色のレインウェアに身を包み、カバンは斜がけ、そしてヘルメット片手に、研究室の入口に姿を現す。

 「ぼくの性格は会社ではうまくいかない、大学に来るしかない」と先生は冗談めかした口調で言う。研究室は企業と共同研究をしていた。先方の責任者が訪ねて来て堅いあいさつをする。そんな雰囲気をよそに先生は自嘲したり、冗談をとばしたりするものだから、みんなが笑い、堅苦しい空気がいっきに緩む。

 私の実験が始まった。竹内先生が私のノートをめくりながら呟く。「うちの学生はここまではできない。さすが北京大学」 横から石田先生が「任さんはちょっとアルバイトをしてもよいでしょう」と言ってくださった。

 先生方は中国の留学生が生活費をアルバイトで賄わなければならないことを知っていたのだ。翌日竹内先生の引率で近くにあるかんぽの宿を訪ねた。レストランの責任者を前に竹内先生は熱心に推薦した。「任さんは研究室の留学生です、北京大学出身で優秀です……ぜひアルバイトを……」 その責任者は、大々的なPRでアルバイトを求めに来た我々を、珍しそうに眺めていた。おかげで採用が決まり、翌日からアルバイトが始まった。

 仕事の内容は、炊飯器からご飯をお椀に盛り付けて黒ごま塩をかけることと、食洗機から食器を取り出し棚に並べることだった。週四日、午後五時すぎから九時頃まで働く。

 今では中国人留学生の多くは、親からの仕送りで不自由なく生活しているが、当時の私たちは貧乏学生だった。来日したとき、私のポケットには一千米ドル(当時で約十六万円)しか入っていなかった。親戚も友人も日本には一人もいない貧乏学生の私を、石田先生はいろいろと気遣い、助けてくださった。

 先生は学部生の授業でよく小テストをしていた。その採点を私に任せてくださることもあった。標準解答にもとづいて採点するもので、長い時間はかからない。報酬として先生は五千円を払ってくださる。

 先生はよく自分で実験をしていた。石田研究室では実験の一つに、材料を千数百度の高温で四、五時間焼結するのがある。先生は午後に電気炉をセットし、夜八時に炉のスイッチを切るように私に頼む。寮で晩御飯を食べた後に研究室に行ってスイッチを切って来るが、かかる時間はせいぜい十数分。それでも翌朝先生は、三千円の報酬をくださった。
 「このアルバイトの単価は高過ぎますね」と私は嬉しいながら言った。「技術の仕事だから」と先生は笑ってはぐらかす。  

 先生は鉛筆を使うのが好きだった。七、八本を順番に使う。しかも鉛筆削り器は使わず、カッターナイフで削るのだ。金曜日の夕方、単身赴任の先生は愛知県春日井の家に帰る。私は週末研究室に行ったとき実験のあいまに先生の席に座って鉛筆を削った。

 学位研究を始めた頃には、先生から分厚い英文専門書を何冊かもらった。ほとんど読まずに机の引き出しにしまっていた。数年後、卒業を迎え、身の回り品を整理するときだった。それらの本を何気なくめくると、そのうち一冊に千円札五枚が挟まっているのを見つけ、仰天した。

 数年前の私はまだ奨学金をもらっておらず、余分なお金など一銭もなかった。こんな大金を本の中におき忘れることなんて、あるはずがない。先生が本を私に渡すとき、お金を挟んでおいてくれたのか。きっと先生は気遣い、私が五千円を自分のお金と勘違いするように、こっそりと忍び込ませたに違いない。

 私は何年もの前の五千円を見つめて考え込んだ。先生に返すか?返せば、この本を私が読んでいないことがばれてしまう。それはちょっときまりが悪い。あれこれ思いを巡らせた私は、いただくことにした。

 留学生活はあっという間に三年が経ち、学位(博士)論文の準備に入った。一九九〇年代前半といえば、バブルがはじけた後の就職氷河期が始まった頃だ。それまでは企業の採用担当者たちが、手土産をもってひっきりなしに訪れては、学生の紹介を教授に懇願していたが、今ではすっかり門前雀羅を張るありさまだ。私より少し遅れて留学のため日本にやって来た夫はかろうじて就職が決まったが、外国人でしかも女性の私には、厳しい状況が待ち受けていた。

 ある日、学食に向かう途中、急に石田先生に呼びとめられた。先生は真剣な表情で「文部省の定員がとれたので、任さんは卒業後研究室の教員として仕事してもいいですよ」と言った。  
 私は驚いた。国立大学の教員枠はそう簡単にはとれない。私は教師や学者になることを望んでいなかったが、先生の厚意と信頼にとても感激した。オファーを受けることにした。

 ところが、運命の脚本には別の展開が用意されていた。論文初稿を提出した直後、私は妊娠をしていることが分かった。夫と相談し、論文公聴会を一年遅らせることにした。当然卒業も延ばすことになる。一方、文部省定員は翌年に回してもらうことはできない。私は大阪大学の留学生で博士でもある知人を先生に紹介し、代わりに研究室に入ってもらった。

 翌年私は博士号を取得して、知的財産業界の仕事に就くことができた。勤務先は大阪。住まいも茨木に移した。

 就職して数カ月後のある金曜日、京都駅の飲食店で石田先生と待ち合わせした。いつもの古いカバンを手に、先生は姿を見せた。
 席につくなり私は「先生、プレゼントです」と言い、紙袋を差し出した。中には通勤用カバンが入っていた。高島屋の仰々しい包装を外しながら、「こんないいもの、ぼくにはもったいない」と先生は照れ笑いした。

 それ以降、先生と会うことはなかった。ただ、先生の誕生日が近づいた頃、ちょっとした贈り物を送った。ライター、名刺入れ、中国酒、日本酒など。先生からのお礼のハガキはいつもすぐに届く。いつも微笑ましい内容である。
 「なかなかいいライターです。さきほど今村先生が来て、ライターをしばらく弄って、タバコに火をつけて……」 
 「五糧液はさすが強い、でも味がいい。今村先生とゆっくり飲ませてもらいます……」 
 今村先生とは、となりの研究室の教授である。

 私は仕事と育児に追われる日が続いた。次第に先生への連絡も途絶え、先生のことを思い出すことすらなくなった。

 ある朝、JR茨木駅に向かう小路を急いで歩いていたとき、ふと石田先生の面影が目に浮かんだ。私は歩を緩めた。どういうこと? 
 あっ、今日十月二十四日、先生の誕生日だ!五、六年も連絡していない。先生はいくつになられたのかしら。時間をつくって逢いに行こう。食事でもして、近況報告をしようと思ったが、その機会は訪れず、月日だけが流れてゆく。

 仕事の都合で、北京に滞在する時間が長くなっていった。初秋のある日、北京のオフィスで研究室からの電子メールを受けた。それは石田先生の退官記念パーティー開催の知らせだった。日程を工夫して、北京特産品二箱を手に京都へ向かった。

 研究室の在学生やOBらがほぼ全員駆けつけ、盛大なパーティーが開かれた。だが、主役の石田先生は欠席。お体の具合がよろしくないと聞いた。私はなるほどな、と心の中で笑った。もともと顔を出すつもりはなかっただろう。先生は正式な場面が苦手だ。社交的な付き合いも、できれば全部省略するのだ。

 それを思うと十数年前、文部省教員枠を辞退したことを、今になって気の毒に感じた。その枠のために、書面、口頭でいろんな関係者から合意をとるのに、きっと先生は大変ご無理をなさっただろう。

 竹内先生が手にしたビデオカメラに向かって、参加者は一人ずつ石田先生へのメッセージを述べた。
 「私は今、月半分は北京で仕事しています。奥様とごいっしょに北京にいらしてください、おいしい中華料理屋さんにご案内します」と残した。

 時は瞬く間に過ぎてゆく。先生は北京にはお見えにならず、私の愛知県訪問もないままだった。

 晩冬の朝、北京のオフィスに電子メールが届いた。先生の訃報だった(享年七十二歳)。

 先生が逝ってから一年経った。あの世ではいかがお過ごしなのか。毎日お酒を飲んでいるのか。犬がお好きだと言っていたので、かわいいワンちゃんがそばにいてくれているのか……

 私の恩師で恩人である、石田信伍先生。

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