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京都での「雅集」

 一九九一年、中国から京都に留学で来ていた私は毎日実験室に入り浸っていた。

 ある日の午後、隣の研究室のYさんがぶらりと実験室に入ってきた。中年男性のYさんは博士課程の社会人学生で、実験の合間に二人でよく雑談をする仲だった。

 椅子に腰をおろして世間話をしばらくした後、彼は声を落として昔の経験を語り始めた。

 「八年前、ぼくは初めて中国に行きました。北京の会社を訪問するための一人での出張でした。その会社から幾人かが迎えに来てくれて、みんなでワゴン車に乗り込んで空港を出発しました。

 外は暗く、十一月末の北京の夜はとても寒かった。車は長い時間走り、ホテルはこんなに遠いのかとぼくは思いました。夜中近くにやっと止まり、全員が車から降りました。辺りは真っ暗で静か。そして寒い風が吹いていました。ここ、どこなんだ……。

 一人の男が、沈んだ声で話しかけてきました。『ここは盧溝橋です。一九三七年にあなたたちが中国侵略戦争を起こした場所です……』
 ぼくは複雑な気分になって、『その時はぼくはまだ生まれていないので、よく分かりません。寒いのでホテルに帰りましょう』と言いました」
 「……」

 Yさんは立ちあがって、椅子の背を両手でつかみ、独り言のように言った。
 「日本と中国の友好関係を結べるのは、任さん(注: 筆者)のように日本で勉強し、生活した経験のある人じゃないと難しいんだ」

 場面をその数か月前に戻す。

 北京のJ教授が京都を訪れた。J教授は京都のW教授と旧知で、その関係でW教授が私の留学のための身元保証人を引き受けてくださり、私はW教授の研究室で勉強することができた。

 私はJ教授に同伴して、もうじき退官するW教授の自宅を訪れた。薄暗い和室で、両教授は座敷机を挟んで座った。余分なあいさつもなければ、再会した友人同士のような親しみもなかった。J教授がいくつか学術の質問をし、二人は淡々と議論をした後に別れを告げた。

 帰り道でJ教授に「中日間の友好は簡単なものじゃない。あなたたちの世代に頼るしかない」と言われたのを覚えている。記憶が定かではなく、もしかしたらこの話は翌朝の研究室でW教授に言われたのかもしれない。

 それから三十年が経ち、中国は大きく変貌した。日本は電気製品から野菜、鶏肉までメイドインチャイナが欠かせなくなった。寒風凜々とした盧溝橋、薄暗い和室のようなシーンは、もう再演されることはない。

 訪中した日本人ビジネスマンは、中国人の「老朋友」と紹興酒や「二鍋頭」で賑やかに乾杯をする。来日した中国人学者は、日本人のホストと和やかにお茶を味わい、寿司に舌鼓を打つ。私たちのような留学生の二世は、十人のうち九人が日本人と結婚をしている。

 新型コロナウィルス感染症が流行する前、京都の友人のギャラリーで、北京在住の画家である義弟が個展を開いた。そこでは、中国の水墨画と日本の詩吟のコラボレーションショーも催された。

 桜満開の日曜日、風情ある庭に面したギャラリーで、ゲスト二、三十人を前に、義弟はお酒をひと口啜って中国語で唐詩をうたい、絵筆を運ぶ。そして、詩吟の指導をしている京都の友人が漢詩を吟じ、詩舞を披露する……。

 中国古代の文人が好んだ「雅集」を彷彿させるひと時だった。

 歴史認識や政治制度で互いの不信感、負の感情が引き出されることは、これからもあるだろう。しかし、平和と美を追求し、愛と穏やかさを求める心そのままの交流を重ねていけば、より明るい未来につながると私は信じる。

 ある日、日本生まれですでに社会人になっている息子に質問した。「日本と中国が試合をしたら、どっちを応援する?」
 「どっちも応援する。オリンピックの卓球を見てるときも、そんな気持ちだった」

 彼はちょっと親に遠慮して、そう答えたのかもしれない。四、五歳のとき、中国対日本のバレーボールの試合をテレビで見た際、「ニッポン、がんばれー!」とはしゃぎながらソファーで飛び跳ねていたことを私は思い出した。

 三十年後、息子は今の私の年齢になる。そのとき、彼らが目にする日中間の風景はどのようなものだろうか。

 今日の大阪は快晴。窓から眺める生駒山脈は、緩やかにうねっている。
息子は最近、松江出身の彼女と入籍したが、その後の緊急事態宣言で二人とはまだ会えていない。お嫁さんへの結婚祝いは何にしようかな……。

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