見出し画像

今、生きているこの世界の見え方が変わるスゴい本

フォレスト出版編集部の寺崎です。

「この人、天才だわ」

心の底からこう思える人が、あなたの回りにはいるでしょうか。

限定された専門ジャンルにおける才覚に優れた人、あるいは努力型の「秀才」は多くいるはずです。「ああ、あの人がそうかも」と誰もが頭に浮かべることでしょう。

しかし、「天才」となると話は別です。

私には「この人は天才だ」としか思えない、敬愛してやまない人物が一人います。その人物とは・・・認知科学者にしてカーネギーメロン大学博士の苫米地英人さん(ドクター苫米地)です。

なぜ、苫米地博士は天才なのか。

①持ち得る知識、知見、解釈の幅がとんでもなく広い
②その知識、知見、解釈の深さが神レベル
③アウトプットの構築力と説得力がすごい

入社して博士の担当をさせていただくことになった当時、「書籍企画の参考になるかも」と思い、DVD教材『マインド・プロファイリングⅢ』の収録に初めて参加したときの衝撃は忘れません。

与えられたテーマで怒涛のごとく3時間しゃべりまくる天才

収録スタジオにフラりとレザーパンツ姿で気さくに現れた苫米地博士。

教材の担当者が今回の収録コンテンツの内容を1枚の企画書を見せながら説明します。ここで伝達ミスをしてしまうと、コンテンツの質に影響しますので、担当者としてはやや緊張気味です。慎重に言葉を選びながら話しています。

それに対して苫米地博士は――

「うん、うん」「わかった」「了解」

と応えるのみ。ちなみに企画書は事前に秘書の方を通して博士に渡していますが、たいていは当日のぶっつけ本番だそうです。

担当者の説明が終わるやいなや・・・

「よし、じゃ、やろうか」

「え?」と思わず声が出そうになりました。もう少しやりとりのキャッチボールがあるのだろうと想像していたからです。こちらが求める内容は、普通の人だったら決して流ちょうにしゃべることができそうにない高度なコンテンツです。

ところが、衣装に着替え、カメラのセッティングを完了して、3、2、1・・・収録スタートするやいなや、始めは少しゆっくりめに、途中から怒涛のごとく、難解なフレーズ、理論を織り交ぜながら繰り広げられる苫米地ワールドに引き込まれます。

台本も一切なく、約3時間ぶっ通しで話し続けるなか、途中で「あれ、大丈夫かな?」と脱線する場面もあるのですが、グルーーーーーっと3周ぐらい脱線したのちに、当初の問いの答えに帰趨する論理展開に驚かされました。

このときに確信したのです。「この人は天才だ」と。

「話す苫米地博士」がいちばんおもしろい理由

苫米地博士の話、しゃべり方には中毒性があると言われています。

私の周りにも「定期的に苫米地博士のYoutube動画を観たくなる。というか、定期的に実際に観てる」という苫米地マニアが数人います。かくいう私もそのうちの一人です。

この中毒性はどこにあるのか。

おそらく、観る人を酔わせる「①抽象度の高い論理展開」に加えて、「②親近感を抱かせる言葉遣いと表情」にあるのだと思います。

(ちなみに「抽象度」という言葉は博士の発明した言葉です。ほかにも「カリスマ」という言葉を使い始めたのも博士です)

「②親近感を抱かせる言葉遣いと表情」が中毒性を生むというどういうことか。たとえば、苫米地博士がたまに繰り出す「~だぜ?」といった語尾には親近感を抱かせる効果があります。「~だぜ?」の語尾が特徴的な政治家に麻生太郎さんがいますが、麻生さんもメディアの記者のハートを掴むのがうまいそうです。

そんな言葉遣いに加えて、哲学者のように眉間をしわを寄せながら深く思考する表情と、少年のように笑う表情のギャップに魅力を感じる人も多いかと思います。

あと、これはけっこう重要かもしれませんが、話すスピードがめちゃくちゃ速く、独特の心地いいテンポ感があるのも中毒性の原因です。Youtube動画が人気のDAIGOも話すスピードが半端なく早いです。頭の中でグルグルしながら高度な情報がテンポよく脳に入ってくる感じが、気持ちいいわけです。

そんな苫米地博士の魅力が伝わる動画を「超絶オススメ書籍」と併せてご紹介します。

宗教戦争から現代のサイバー戦争まで一貫した「戦争のカラクリ」を暴く危険書

苫米地博士の著作は膨大で、それこそ多岐にわたります。そんななかでも「戦争論」というど真ん中のテーマで語れらた本はありませんでした。

ところで、苫米地博士のすべての活動の「ゴール」がなにか、ご存じでしょうか。これはあまり声高に語られたことがないので、あまり知られていないかもしれませんが、「すべての差別と戦争をなくす」が博士のゴールです。

膨大な出版活動もその一端であるわけです。

そこで「戦争論」を書いていただきました。そして、これが予想を超えた戦争論となり、これまでの常識が180度ひっくり返る内容でした。とにかくぶっ飛んだ「戦争の真実」が暴露されたのが『日本人だけが知らない戦争論』という本です。

「石油の対日全面禁輸が原因で日本は大戦に突入した」
「中国が尖閣諸島に侵攻したら米軍が出動する」
「倒幕運動に参加した坂本竜馬らは歴史的ヒーローだ」
「南北戦争はリンカーンによる奴隷解放が目的だった」
「戦争のきっかけとなる大恐慌は人為的なものではない」

これらの事実は常識的に「事実」だと思われてますよね。でもじつはすべて「ウソ」でした・・・といわれたら、どうでしょうか。

われわれ日本人は憲法9条で戦争放棄をした唯一の国家に属する国民であり、国連加盟国の中でこれまた唯一、戦争を起こす権利を持っていない国に住んでいます。世界から見てとても特殊な国に生まれた日本人は、「戦争とは何か?」「戦争のカラクリ」がまったくわかっていないのが現状です。

本書で展開される戦争論においては、17世紀のクロムウェルによる宗教戦争の時代から、現代の世界大戦、サイバー戦争まで、基本的構図は変わっていません。もっと言うと、金儲けとしての戦争のルーツは旧約聖書の時代にまでさかのぼります。

本書を読めば、その巧妙な戦争のカラクリが手に取るようにわかってしまいます。

ここで内容の一部をご紹介したところなのですが、旧約聖書の時代から現代のサイバー戦争までの壮大なストーリーを内包した内容であり、一部を切り出して説明するのが難しいため、本書のまえがきをここに公開します。

まえがき 戦争は悪か?

「見ず知らずの相手をみな殺しにしたいと思って戦争に行く人間は、この世界に一人としていないのではありませんか」

この本の構想を練っているとき、編集者が私にこんなことを言いました。

「そんなことはないよ。いずれ日本人も彼らの標的になるよ」

 私は即座に答えました。彼は心やさしき人間なのかもしれませんが、その点ははっきりさせておかなければなりません。
 人を殺してはいけない。人を傷つけてはいけない。
 これは当り前のことです。ただ世界の他の人達が全てそう思っているのかというとこれはそうとは言えないのです。世界の一部の人達からは我々日本人が牙を抜かれたお人好しに見られているぐらいです。
 人間社会から完全にはみ出したいわゆるアウトサイダーたちは、この手の論理を持ってはいません。コリン・ウィルソンが書いているように、ただひと時の個人的な楽しみのために殺人をくり返すアウトサイダーの存在も珍しくはないのです。
 もし、あなたが世界の全ての人が人殺しを嫌悪していると考えているならば、それは単に支配者が与えた教育の結果です。
 私たちは機会あるごとに、殺人は間違っていると教えられてきました。殺人を犯せば、裁判できわめて重い制裁をかけられ、社会復帰することができたとしても以前の生活を取り戻すことはできません。自責の念に囚われて生きるようにも仕向けられます。かりに相手を殺害するだけの理由があったとしても、殺人は絶対悪とされます。

国家には「戦争を起こす」正当な権利がある

ところが、国家間となるとこれが通用しません。実際日本政府さえも他国の戦争行為を肯定しているのが現実です。
 これが支配者の身勝手なご都合主義であることは、戦争を見ればすぐにわかります。
 戦争では、絶対悪だったはずの人殺しも、「殲滅に〝いいね!〞しました」ということになります。「自分とは無関係の相手を殺すことは、私にはできません」と兵役を拒否すると、「お前にそんな権利はない」とばかりに牢屋にぶち込まれることでしょう。
 そのいっぽうで、嬉々として出征し、できるだけ大量の戦争相手国の人間を効率よく殺すことに勤しむ人もいます。
 たとえば、私は事実とは思っていませんが、日中戦争の南京攻略戦で100人斬りの殺人ゲームを競ったとされる向井少尉と野田少尉。あるいは、第2次世界大戦末期、日本の都市という都市に焼夷弾の雨を降らせ無差別大量殺戮を実行した、空の英雄カーチス・ルメイ将軍。
 いっぽうは南京軍事裁判によって死刑に処せられ、いっぽうは戦後、旭日大綬章を授与されるという栄華の隔たりはあるものの、もし事実であればやっていることは大差ありません。現在においても、世界の紛争地域ではこの手の人たちが大活躍しているはずです。
 これで、どうして人殺しは悪ということになるのでしょうか。
 人殺しと戦争は違う。
 そう考える人もいることでしょう。
 たしかに、人殺しと戦争は違います。
 人殺しは、個人に権利として与えられていませんが、戦争は、国家に権利として与えられています。
 戦争を起こす権利は、国家が持つ外交権の一部として、国際法で認められています。
 1945年に制定された国連憲章の2条4項は戦争を禁止していますが、安全保障理事会において認定された「国際社会の平和と秩序への脅威」に対する強制行動や自衛のための武力行使は認められています。つまり、すべての国連加盟国は、個別的自衛権と集団的自衛権を持っているということです。
 だからこそ、イスラエルはパレスチナのガザ地区に砲弾の雨を降らせています。アメリカがイラク北部並びにシリアの一部を占拠している武装集団「イスラム国」の空爆に踏み切ったのも、国連憲章に則った集団的自衛権による行動といえます。もちろん、世界がそれをどう見るかという判断は別にせよ。
 その意味で戦争は、日本以外の国では国際法に則った正当な行為とされています。
「だから、人殺しをしたい人は、どうぞ戦地に行って思う存分におやりなさい」
 こういうことになるでしょうか。
 もっとも、戦争に行くことも自己責任です。もちろん、日本人は刑法で禁止されています。また、自分が戦地で殺されるかもしれないし、無事に生き残って帰ることができたとしても、戦争に負ければ厳しく戦争犯罪を問われることになるでしょうが。

「富国強兵」という言葉の本当の意味

 いつも述べることですが、人間の善悪の判断は、その人の思い込みによって大きく歪められています。
「人殺しは悪だ」「戦争はいけない」という考え方に堅固な論理を持たない人は、いざ政府が「国に報いなさい」「国家のために命を捧げなさい」と宣伝し始めると、案外、ころりと宗旨替えをしてしまうものです。戦前に戦争反対を唱えていた人々が、太平洋戦争が始まると打って変わって目つきが変わり、「お国のために立派に死んでくるんですよ」と言って息子を送り出した話は当時のメディア統制下のこととして割引いて考えたとしてもかなりいたと思われます。
 自ら答えを突き止めることのない人というのは、こういうものです。思い込みで判断する人間は、誰かに別の思い込みを吹き込まれることで、じつに簡単に操作されてしまいます。この世には愛も善も正義も人の心の中にしかないという出発点から考えを紡ぎ出し、自分自身の答えに到達しないかぎり、このことは変わりません。
 その点からいえば、8月15日に終戦を迎え、日本が一夜にして国民主権の民主主義国家になったということも、私はかなり怪しいと考えています。
 もちろん戦後の日本は、憲法で国民主権を宣言し、選挙権などの民主主義制度を持っています。しかし、そのいっぽうで民主主義とは何かということを学ぶこともなく、日本人は民主主義の何たるかをほとんど理解していません。
 その結果、民主主義という偽装包装紙にくるまれた独裁が、おそらく戦後ずっとつづいてきました。戦前の神国日本と比べれば、はるかにソフトな国家統治になってはいるものの、日本の体質は明治維新以来まったく変わっていません。要するに、富国強兵の国家主義です。
 富国という単語はなかなかよくできていて、実体を巧妙に隠すのに、じつにうってつけの言葉です。富国というと、豊かな国や豊かな暮らしを思い浮かべるでしょうが、そうではありません。
 富国とは、文字通り国が富むことであり、国民全般が富むことではありません。明治維新から太平洋戦争開戦にいたるまでの日本の国情を調べてみると、国民全般の暮らしは常にと言っていいほどひっ迫していました。
 そのいっぽうで、貴族、政治家、官僚や軍部の上層部、あるいは国策会社の経営者は、鹿鳴館のどんちゃん騒ぎを引き合いに出すまでもなく、きわめてリッチで浮かれていました。つまり富国とは、国民大衆から巻き上げた上前で国の中枢に位置する人たちが豊かになることだったと見ることができます。
 ということは、強兵という言葉も同じ文脈で捉えなおさなければなりません。国民を強兵に仕立てるのは、国民を使って領土を奪い、現地の敵国人を奴隷にして金儲もうけを行い、それによって日本の中枢の人々がリッチになる政策だったということです。
 事実、日清、日露の両戦争に勝利しても、国民生活が豊かになった形跡はありません。つかの間の勝利の高揚はあったにせよ、国は戦争利益を国民に分配することもなく、むしろ国民生活は戦争をするたびに疲弊していったといえるような状況です。
 明治から昭和にかけての文献を読むにつけ、国民主権の民主国家になったはずの戦後日本がまさに同じようなコースを歩んできたことに、私は驚きを禁じえません。
 そして、日本はいままた偽装包装紙を臆面もなくほどき去り、戦争をいとわない国家主義の本性を見せ始めているわけです。

日本は一人前の主権国家ではない

 すでに述べたように、世界の論理は戦争は必ずしも悪だとは考えていません。
 強固な信念と倫理を背景としない、単なる「戦争は悪で、絶対に戦争を起こしてはいけないのだ」という口先だけの論理は、日本人に日本が一人前の主権国家ではないという本質を忘れさせてしまいます。
 ご存じの方も多いと思いますが、日本は国連加盟国の中で唯一、戦争を起こす権利を持っていない国です。
 なぜかといえば、国連憲章に敵国条項が残っているからです。それによると……

国際連合の母体である連合国に敵対していた枢軸国が、将来、再度侵略行為を行うか、またはその兆しを見せた場合、国際連合安全保障理事会を通さず軍事的制裁を行う事が出来る。

……とあります。
 日本人にとって、これは悲劇です。「平和国家」や「不戦の誓い」という美辞麗句が戦後69年間にわたって、日本は本当の独立国ではないという事実を私たちから隠しつづけてきました。
 戦争放棄をうたった平和憲法と国連憲章の敵国条項は、ある意味で、まるできちんと謀ったように整合性がとれています。そこには、日本人が強く平和を希求すればするほど、一人前の主権国家になる道が閉ざされるカラクリが、巧妙に組み込まれているのです。
 安倍内閣は、憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使を容認したとされます。
 ただ、日本が憲法解釈を変えても、憲法を改正しても、国連憲章の敵国条項が国際的には優先されます。世界から見れば、日本は相変わらず戦争を起こす権利を持たない半人前の国家です。
 日本が自分たちの考えにもとづいて戦争を起こそうとすれば、国連はそれを咎めるでしょう。場合によっては、国連軍が武力鎮圧に動いてきます。
 実際のところは、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約により、日本が軍隊を送ることができるのは、アメリカ軍の作戦地域、もしくは、アメリカが認めたオーストラリア軍などに対するアメリカ軍の代理としての参加だけです。そうなれば自衛隊は、アメリカの軍事作戦のために、アメリカ軍の一部として、日本国民の税金を戦費に使い、戦闘を行うことに条約上なります。彼らは、何のために自らの命を危険にさらし、敵国でもない場所で人殺しをするのでしょうか。
 現政権は、「集団的自衛権の行使によって、日本人の生命と財産を守る」と述べました。ところが、実際の所は、現行の条約下における集団的自衛権は私たちの生命と財産の安全にまったく無関係です。よく指摘されることですが、アメリカの軍事作戦に従事することによって他国や他民族から要らぬ反感を買い、逆に日本人の生命と財産を危険にさらすリスクさえあります。
 これが、どうやら現在の日本が選んだ戦争の形です。
 私は、戦争を遂行する国家の目的は、常に自国民と他国民の両方からの壮大な収奪だと考えていますが、戦争の背後には、それ以上に大きな絵が隠されています。
 私たちが真に目覚めるためにも、いまそれを明らかにしていきましょう。

「宗教とはなにか」の常識がひっくり返る衝撃作

「戦争」と同様に人類が多大な影響を受けてきたものがあります。いや、いまもなお世界を動かす原動力、エンジンとなっているもの。

それは何か。

――――「宗教」です。

チベット密教、仏教をはじめ、あらゆる宗教に造詣の深い苫米地博士が、これまた「宗教」をど真ん中に語る本はこの『人はなぜ、宗教にハマるのか?』以外にありません。

苫米地博士が世に出てきたきっかけが、オウム真理教の信者の「脱洗脳」であったことを考えると、苫米地博士にとっては本来的なテーマといえます。

本書は2010年にフォレスト2545新書から刊行されて話題となった『なぜ、脳は神を創ったのか?』の単行本リメイク版です。

-----
1991年、科学によって、
「神が存在しない」ことが証明された!

-----

このような衝撃的な帯文で世に放たれた新書版は、各所で賛否両論を巻き起こしました。

「1ページ、1ページと捲る度に新しい事実を知らされて椅子から転げ落ちそうになり、とても最後まで、座ったまま大人しく読む事はできなかった。目から鱗どころの話ではない、目玉そのものが落ちる思いだった。」
(Amazonレビューより)

新書判をリメイクするにあたり、脚注や写真を追加したほか、追加コンテンツとして「第5章 現代に続く『日本教』はいつ生まれ、どこへ向かうのか?」を加えたのが、本書『人はなぜ、宗教にハマるのか?』です。

こちらも一部を切り出して紹介すると、誤解を招きかねないため、もくじをご紹介するに留めます。

序章 宗教が「戦争」を引き起こす唯一の理由
神様を必要とする人々 
戦争や人殺しがなくならない理由 
なぜ、宗教は人を殺すのか? 
「利益教」からの脱洗脳

第1章 人はなぜ神を必要とするのか
神とは何か? 
神は「人間の脳」によってつくられたのか? 
「神の目撃情報」を検証する
霊感や特殊能力があると主張する人は99%オカルト
明治以前の日本には「宗教」という概念がない
人間は完全情報を求めて信仰心を抱く 
なぜ祖先崇拝が生まれたのか? 
死への根源的な恐怖がもたらしたもの 
宗教が生む権力支配構造 〜宮本武蔵は催眠術師だった!?
現在の国家は「信仰心」から生まれた 
宗教学者による反論 
「宗教学が対象としない宗教現象」は宗教ではない!?
勝者の歴史で語られる「魔女狩り」と「死海文書」 
消えていった敗者の宗教 
「資本主義」も「マルクス主義」も宗教現象にすぎない 

第2章 宗教と統治のヤバい関係
政治が宗教を「目的達成の道具」にする時代 
「スピリチュアルブーム」や「占い」に潜む政治的意図 
「宗教改革」は腐敗した政治権力への反発だった 
イスラエルのヒルトンホテルで体験した異様な宗教原理主義 
世界一の宗教原理主義の国・アメリカ 
エノラゲイに乗っていた13人目の意外な人物 
キリスト教徒以外の人間は「人間」ではない!?
アメリカがナチスドイツに原爆を落とさなかった理由 
ケネディ大統領とキング牧師が暗殺された理由 
宗教現象が人々を人殺しに駆り立てる 
「お国のため」という宗教に隠されたビジネスの原理 
政治利用され続ける「宗教」を救うことはできるのか? 

第3章 はたして「神」は存在するのか?
神は本当に存在しないか?
認知科学が変えた「リアリティ」の定義 
ヴェルナー・ハイゼンベルクの不確定性原理 
量子論によって「真空がない」ことが証明された意味 
いずれ人類は宇宙さえも創る 
量子論と「空」 
量子論から出された「神の死亡届け」 
情報空間においても「神はすでに死んでいた」 
ゲーデルが証明してしまった「不完全性」 
1991年は神が正式に死んだ年 
ゲーデル、チャイティンの数奇な最期

第4章 日本人だけが知らない「仏教」の本当の歴史
「アプリオリ」を全面否定した釈迦
釈迦は天才的な気功師だった!?
神を語る人間はみな嘘つき 
「神」を否定する宗教は仏教のみ 
釈迦は誰に「暗殺」されたのか? 
釈迦が死ぬ前に出した2つの注文 
2000年前の上座部仏教の煩悩
釈迦はマントラを否定した!
釈迦の思想を骨抜きにした超大国・中国 
日本人がオリジナルな仏教の教えを知ったのは最近のこと 
『チベット死者の書』とオウム真理教
涅槃への中間地点として生み出された「浄土」 
なぜ、南無阿弥陀仏と唱えるのか? 
いまこそ釈迦のメッセージに耳を傾けるべき時代

第5章 現代に続く「日本教」はいつ生まれ、どこへ向かうのか?
「日本の宗教」とは何か? 
信憑性を増してきた「日ユ同祖論」 
カタカナの起源は古代ヘブライ語だった? 
あまりに似すぎている「日本の神道」と「ユダヤ教」 
いまだ謎に包まれる「三種の神器」のルーツ 
単なるスクープでは済まされない三笠宮殿下の記事 
現代日本人の宗教観を解明するカギは奈良時代にあり 
歴史的に改ざんされた「聖徳太子」
日本の宗教の歴史は当時の仏教勢力が捏造したのか? 
「宗教が変遷する」ということの本来の意味 
日本に一神教の教えを持ち込んだユダヤ教 
明治の元勲たちが目指した「一神教体制」による近代化 
仏教勢力によって潰された神道による強烈な巻き返し 
大戦後の「日本教」のゆくえ 

最終章 「神」と「宗教」から完全に自由になる方法
なぜ、金融業は公的資金で救済されるのか? 
ビジネスの道具へと堕した現代宗教の現実 
「政教一致」は悪くない 
完全に自由になるためにはどうすべきか? 
餓死する人間が1人もでない世界は実現するのか? 
日本国内にも厳然と存在する「カースト制度」 
「義務」ばかり課される現代の国民 
共産主義圏は充分に豊かだった! 
前頭葉の発達した人類にとって「納税」は「権利」である 
「国家」をやめれば「コスト」は下がる 
この世に唯一絶対の価値の尺度はない 

以上、苫米地博士の超絶おすすめコンテンツ2点でした。

この2冊を読み終えたあなたは、きっと世界を視る目がこれまでとまったく変わってしまうことになると思います。

スピリチュアル・ブームを斬った問題作

最後に。

他社の書籍ですが、ぜひともご紹介したい苫米地博士の著作があります。

弊社でもスピリチュアルの本をたくさん出していますが、その源流はかつて「精神世界」と呼ばれたジャンル、そして「スピリチュアル」という言葉をお茶の間に流布させた江原さんの存在がデカい。

そんな時代のスピリチュアリズムについて警鐘を鳴らした『スピリチュアリズム』という本は名著中の名著です。

この件に関してお茶の水博士がMCを務める『博士も知らないニッポンのウラ』という番組に博士が出演した回は、ファンの間で「神回」として長年ヘビーローテーションとなっています。なかなかすごい内容が語られていて、必見動画です。

最後の最後に。こちらの関連記事もどうぞ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?