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【離婚後共同親権】(オピニオン)「ベスト&ブライテスト」


赤レンガしか知らない田舎者たち

君たちは、限定戦争なら何とでもできると思っているようだが、われわれは、アメリカのリーダーシップを待ちこがれているエリート社会を相手にしているんじゃないんだよ。ベトナムはそんな社会ではない。ハーバードや外交問題評議会の相手を務める東海岸のエリート社会とは、わけが違うんだ。
これから先アメリカの進む方向に深い憂慮をおぼえがながら、リースマンは、昼食を終えて彼らと別れた。南北戦争の研究に興味を抱いていた彼は、あの戦争が沸き立てた熱気、表面の下に秘められた緊張と怒り、アメリカ社会をかろうじて結び付けていた紐帯の脆さに、常日頃思いを致していたのである。リースマンは思った。あの連中は田舎者だ。頭は切れる。しかし大西洋しか知らない田舎者なのだ。

D.ハルバースタム(訳:浅野輔)「ベスト&ブライテスト(上)」(1999年 朝日文庫)

後の世に、法制史研究者が2021年~2024年に開催された、法制審議会家族法制部会の名簿を手に入れた時、その教科書にはきっとこう書かれるのではないだろうか。

ベスト&ブライテスト。

大村敦志、棚村政行、水野紀子、窪田充見…選ばれているのは、当代一といっていい家族法学者たち。落合恵美子、菅原ますみといった社会学や心理学の第一人者。ジェンダー法研究では戒能民江。脇を固めるのは、一流大学で研究の最前線を担っている中堅の学者幹事たち。そこに実務法律家や当事者団体の代表に経済界・労働団体からも研究者が加わって、それはまさに"ドリームチーム"の観がある。
この分野に通じている研究者やジャーナリストが、家族法改正の公正な検討のために、ドリームチームを自由に人選できるとしたら、誰でもほぼこのような陣容になるのではないだろうか?

しかし、先の法制史研究者は、きっとこうも書くだろう。
「あの連中は田舎者だ。頭は切れる。しかし"赤レンガ"しか知らない田舎者たちだったのだ。」
「赤レンガ」とは、霞が関界隈での法務省のニックネームである。

アメリカ外交史上最大の愚行

若干寄り道して、本の紹介をしたい。
「ベスト&ブライテスト」は、現代アメリカ政治を学ぶ人なら必読書であろう。
1960年代、熱狂的な支持で大統領選挙に当選したジョン・F・ケネディの下に参集し、リンドン・ジョンソンが引き継いだ政策チームは、東海岸の一流大学を出た選りすぐりのエリート・エスタブリッシュメント達で構成され、「ベスト&ブライテスト」というニックネームが付けられた。
しかし、その実態は「大西洋しか知らない田舎者」だった。世界の多様性に盲目であった彼らがしでかしたことは、アメリカ外交史上最大の愚行といわれるベトナム戦争である。

著者のD.ハルバースタムは、1934年にニューヨークで生まれ、ブロンクスのユダヤ人社会で育った。ハーバード大学を出た後、地方紙の記者を経て、NYタイムズの記者としてベトナム戦争を従軍取材する。
その批判的な報道姿勢は当時から知られていて、時のケネディ大統領は彼の配置換えを要求していたらしい。
しかし、実は最初の頃、ハルバースタムは、ベトナム戦争に必ずしも批判的ではなかった。後年、「娘への手紙」と題された記事によれば、「この戦争の目的、そしてそのために戦っている人を私は信じていた。同じ世代の多くの人びとと同様、私はケネディ大統領の就任演説に感激していた。前進に横たわる戦いに身を挺そう、この偉大な冒険の一員になるのだ、と心を躍らせていた。そして外信部長に何度も願い出て、ベトナムにやってきた。冒険の一翼を担うために。」と心中を告白している。
しかし、50回にも及ぶ前線取材を経て、考えが変わる。
アメリカは間違っているのではないか。
その記事は次第に懐疑的になっていった。

そのうち、ある噂が流れた。
累々と横たわるベトコン兵士の死体の写真を見せられたハルバースタムは嗚咽したというのである。
2024年の日本社会に生きる私たちには、いかにも人間らしい悲しみの発露にしか思えない噂だが、当時のアメリカ社会では致命的だった。人前で涙を見せれば、大統領候補も格好のネガティブキャンペーンの材料として引きずりおろされる時代の話である。
そして、噂には尾ひれが付く。女々しいばかりじゃない。その涙はベトコン(南ベトナム解放民族戦線)のために流された。あいつはアカだ。
何やら令和ニッポンのネトウヨアカウントのデマを彷彿とさせるが、噂を流していたのはアメリカ海兵隊の将校である。後にハルバースタムは当の本人と直接対決して不名誉を晴らす。
だが、後年に書かれた「娘への手紙」は、こう結ばれている。
「それから1年後、おまえの名付け親で私の後任としてサイゴン特派員となったジャック・ラングスが、この1件を記事にした。例の話は事実ではない。だが、ハルバースタムにとっても、ほかの記者にとっても事実であるべきだった。どちら側の兵士であれ、その死骸を目の当たりにして涙を流すのは自然ではないのか。来るべき世代のアメリカ人は、戦争の惨禍の中に横たわる死体に涙する人をさげすむどころか、むしろその涙ゆえに尊敬するだろう。」

1971年、NYタイムズはベトナム戦争に決定打を放つ。
アメリカ政府は30年以上にわたって国民や議会を欺き、ベトナム介入の実態を隠蔽し続けていたのである。いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」のスクープだ。
報道の自由の金字塔といえる、アメリカ連邦最高裁判決に至るまでのドラマチックな展開は、映画「ペンタゴン・ペーパーズ」を是非ご覧いただければと思うが、ここにはハルバースタムは出てこない。スクープ記事を書いたニール・シーハンとは別に精力的な取材を続け、1972年にその政策決定の内幕を明らかにした「ベスト&ブライテスト」は刊行された。

明らかになったのは、全米で絶賛されていたはずのエリートたちの自己欺瞞と自己保身、自己正当化の数々だった。

家族法思想の決定的敗北

2024年1月30日、法制審議会家族法制部会で離婚後共同親権案が取りまとめられたその日、「離婚後共同親権から子ども達を守ろう」記者会見に参加した、憲法学者の木村草太は、こんなことを指摘した。

 この要綱が決定されたプロセスにも、重大な問題があります。
 第一に、法制審議会は、全会一致を慣行としてきました。それは、法制審議会の有識者がそれぞれ専門を異にし、一部の意見を無視すれば、重大な問題が発生するからです。今回は、DV・虐待の専門家の反対を多数決で押し切ろうという動きがあります。この法案が通れば、DVや虐待の被害者が窮地に立たされることになるのは、明らかです。
 第二に、中間試案の作成において、参考資料の作成に政治的圧力があったという報道がありますが、審議会はこの点について検証していません。
 第三に、パブリックコメントには、多くの当事者から、非合意・強制型の共同親権への切実な懸念が寄せられましたが、審議会は、それらの声を十分に検討していません。
 第四に、審議の内容にも多くの疑問が残ります。審議会では、父母が合意してなくても共同親権にすべき場合とはどのような場合かなど、大変重要な問題提起がなされましたが、受け流されたままです。
 このように、要綱決定のプロセスは異様で、議論の内容も、子どもの利益と家庭内暴力の被害者への配慮を欠いたものになっています。
 この要綱案に賛成するということは、DV・虐待の被害について無知であるか、加害に加担しているかのいずれかです。さらには、「人間関係を強制されない」という、人間の尊厳に不可欠な自由の侵害についても、無知であるか加害に加担しているかのいずれかです。

ちょっと待って共同親権プロジェクト「2日で25,000筆を突破!記者会見を開催しました」
(change.orgウェブサイトより)

本記事の冒頭にご紹介したとおり、家族法制に参集した学者たちは、学生や研究者、実務家らの衆目が一致するところの第一人者である。木村の批判の論旨に蒙であったとは到底思われない。
この記事をご覧になった多くの人は、おそらく、木村の指摘する第二の点に着目するのだろうが、私はそこが最大の原因だとは思わない。
というのも、79年前に法学者たちは、今とそっくりの失策をしでかしているからだ。松本委員会とも呼ばれる、憲法問題調査委員会だ。

敗戦直後、日本はポツダム宣言を受諾し戦争を終わらせる条件として、民主改革、なかんずく憲法改正を国際的な責務として負うことになる。時の幣原内閣も、美濃部達吉、宮沢俊義、清宮四郎ら当代一の憲法学者たちを集め、憲法改正を検討させる。しかし、旧態依然とした弥縫策しか打ち出せなかった松本委員会案は、GHQを失望させる。
結局、幣原たちはGHQから逆提案を受け入れる形で、世界史上最も先進的な憲法改正を進めて行くことになる。だが、アメリカ軍将校にシロタ・ゴードンのような民間出身スタッフが加わって練り上げられたGHQ案を思想的に後押ししたのは、日本の著名な法学者ではない。鈴木安蔵のような、当時は無名の在野研究者たちであった。
憲法制定史研究の第一人者である古関彰一は「日本国憲法の誕生」(岩波現代文庫 2017年)の中で、この過程を「憲法思想の決定的敗北」と評したが、言い得て妙である。政治的に"押し付けられた"側面ばかりが強調されることがあるが、その実態は、当代一のエリートたちは、在野の法学者たちのような進歩的・先進的な思想も、それを国際的な政治的圧力を跳ね返し、説得の論理を提示するだけの哲学も思想も気概すらも、何一つ持ち合わせていなかったのである。

2024年1月30日に、家族法制部会で起きたこともきっと同じだろうと、私は思っている。
部会長の大村は、親権の絶対的権利性を自身の著書の中で「絶対的にノー」だと言い切っているし、水野は長年、家庭内の弱者保護に心を砕いてきた研究者だ。窪田は、親権の権利性すら否定する見解を示している。
だが、彼らがしでかしたことは、どう考えても、父権強化・復活に加担したとしか思えない、最低最悪の愚行である。古関の言葉になぞらえるならば、これはもはや、家族法思想の決定的敗北というほかない。

自己欺瞞、自己正当化そして自己保身

集団浅慮、という言葉がある。

主に社会心理学や経営学で使われる専門用語であるが、集団浅慮とは、集団が持つ圧力(同調圧力等)によって、その集団で考えていることに対しての判断能力が損なわれ、本来は好ましくない結論を出してしまう傾向のことだ。グループ・シンクとも呼ばれる。
一般的に、頭の良い、優れた見識と人格の持ち主が集まれば、一人の凡人が考えるより優れたアイデアが生まれることが期待される、きっと誰もが思いつくことだろう。
だが、歴史が示すとおり、こうしたエリートたちが集まることによって、しばしば、凡人の発想では信じられないような愚かな意思決定がなされることが起きる。
実は、集団浅慮の格好の教材として挙げられるのが、アメリカ政府によるベトナム戦争の意思決定過程である。「ベスト&ブライテスト」の問題だ。

研究では、こうした集団浅慮が発生する要因として、集団の結びつきが強いことが分かっている。合理的な判断を下すことよりも、集団としてのまとまりの良さや居心地の良さが優先されることで、不合理な選択がされてしまうことがある、というのは、読者の皆さんも身近にご経験があるかと思う。
今回の件でいえば、アカデミックな近しい関係性の学者たちの討議の中で、合理性が無視され、不合理な選択が行われたというわけだ。

そして、そこに過信と自己欺瞞、自己正当化が加わる。
家族法制部会の議事録を読んでみると、「この人たちはヒアリングの内容を本当に活かす気があるのか?」と訝しくなる発言にしばしば出会う。先の木村の指摘にもあるとおり、部会では、DVや虐待の被害者など、何人もの弱者へのヒアリングが行われた。しかし、その後の議事録をみると、それは所詮エクスキューズで呼ばれただけなのかと思わざるを得ない、ヒアリングの内容を置き忘れた議論が展開される(正確にいうと、赤石千衣子らが主張しても、華麗に聞き流されている。)。
それもそのはずで、大村ら議論をリードした学者たちにとっては、日ごろの研究活動の中でこうした情報に接していて、「知っている情報」「分かりきったこと」なのだ。要するに過信である。改めて見つめ直そうという謙虚さがそこには存在しない。
そこに2022年8月、露骨な政治的介入が加えられた。

当時の議事録を見直してみると、そのほとんどの委員の発言に、政治的介入への批判、法制審議会の中立性への危機感が表明されている。その点は正しい。
だが、この後に委員たちは、愕然とする議論を展開する。政治的介入をどう跳ね返すべきかという議論は1分もなされることはなく、自民党政治家たちの指摘を受けてどのように中間試案をモデレート(緩和)するか、という点に集中したのである。まさに集団浅慮の病理である。
その後も、委員たちは自己の学究としての良心を曲げ、政治的圧力に果てしない妥協を繰り返していくことになる。

だが、一方でこうも思う。
彼らの愚行は、彼らだけの愚行であるのだろうか?

理不尽な圧力を「跳ね返す」思想を持つことなく、常になあなあで済ませようという非合理な意思決定の傾向は、日本社会のいたるところでみられる。
そして、それを「仕方がなかった」と自己正当化(心理学的にいうと合理化)する傾向を、私たち日本人は、多かれ少なかれ、心の中に宿している。
博識と善良さしか取り柄のない委員たちは、私たちとそう変わることはない人たちでもある。彼らは根っからの大悪党ではないのだ。
そして、家族法制部会の愚行は、DVや虐待を無視、そればかりか正当化すらするような自民党政治家を大量に当選させ、委員たちを外界から孤立させ、棚村政行ら一部委員の専断的な進行によって引き起こされたことである。この赤レンガの世界を取り巻くのは、有権者、ふつうの日本人たちの巨大な無関心である。
私の想像するところ、今後、委員たちにインタビューしてみると、当事者たちがあきれ返るような、彼らのこんな主張に出くわすのではなかろうか。
「法制審議会の権威や中立性、家庭内の弱者を本当に守ったのは、共同親権反対派ではなく、自分たちだ。」
傍証を示そう。2023年10月3日、家族法制部会第31回会議において、幹事の青竹美佳(大阪大学教授)はこう言い放った。

 前回、パブリック・コメントに関する御発言がありましたようですので、こちらについて少し発言させていただきたいと思います。前回、パブリック・コメントでの離婚後共同親権の可能性を開くことへの反対意見とか、慎重な意見が丁寧に扱われていないのではないかという御指摘がありました。その御指摘と違った見解を持ちましたので、お伝えさせていただきます。
  DVとか虐待からこどもと、特に母親ですが、親を守るのが非常に重要な課題であるということについて、既に共有されていると思います。今の佐野幹事の御発言にも表れていますけれども、丁寧に扱われているといった見方の方が客観的なのではないかと考えております。

法制審議会家族法制部会第31回会議議事録5頁

もはやここまでくると、木村の言うところの「加害に加担」という評価は、寸分の狂いなく見事に当てはまってくる。
だが、素地はあった。

政治との共犯関係

私は、この3年間、家族法制部会のメンバーが、離婚後共同親権にそもそもどのような考えを持っているか、できるだけ資料を収集してみた。
彼らはもともと、離婚後共同親権に賛成だったのである。

とはいえ、自民党政治家たちのような、フリーパスの原則的共同親権者というわけではない。親権そのものの定義を弱化させたり、当事者の合意が条件であったり、親権制限を容易にする対策を示したりと、各自それぞれに学説は異なるものの、共同親権そのものを本質的に否定する論は絶無であった。
つまるところ、2022年8月以降の政治介入との相克は、家族法制部会の学者委員たちにとっては、自説をいかに挿入するかという条件闘争の場に過ぎなかったのである。典型的なのは水野の行動で、年来の主張であった法定養育費制度の導入が見通せるとなると、ギリギリと何度も断りつつ、要綱案への賛成に転じている。

利害が一致すれば、政治との妥協にやぶさかではない。
学問の真理に殉じることなく、共犯となることを進んで選択し、果ては青竹のような無様な自己正当化の論をぶつに至っては、彼らをアカデミシャンと呼ぶのは買い被りであろう。ポリティシャンと呼ぶ方がふさわしい。

終わらない戦争

企業法務に携わる人間としてはあるまじきことかも知れないが、2024年1月30日に取りまとめられた要綱案の法的リスクの説明について、私は一行もする気にはなれない。
そうしたことは、専門の良心的な先生方からいくつも示されており、読者の皆さんは、私のような浅学者の論より是非そちらを当たっていただきたい。

私が書きたいことは、書くべきことはそういうことではない。
私が委員たちに言いたいことは、「こんな要綱案で離婚紛争が終わらせられると思っているなら大間違いだ。」ということだ。

貧弱な日本の司法システムの中で戦われる離婚紛争は、DV・虐待・性暴力なんでもあり、「戦争」と評して差し支えないほど、悲惨で凄惨なものである。
法は本来、そうした紛争に法的正義の観点から、あるべき公正な解決策を確固たる論理で示すべきものであるはずだろう。が、そうした視点が示されることはなく、一面的かつ一方的で無責任な法律案が示されただけである。
確実に戦争は拡大することだろう。

最後に、映画「ペンタゴンペーパーズ」の後の話をして終わりにしよう。
ペンタゴンペーパーズのスクープの後、ベトナム反戦運動が盛り上がったのは事実である。一方で、社会の深刻な分裂も引き起こした。
NHKの傑作ドキュメンタリー番組「映像の世紀」には、ベトナム戦争の回で、反戦運動の若者たちに、ブルーカラーの労働者たちが乱闘で殴りこむシーンが紹介されている。
ケネディ、ジョンソンの後に大統領となったニクソン、フォードの両大統領は、名誉ある平和を求めて、北爆という名の無差別爆撃を続行する。一説には第二次世界大戦で日本に投下された爆弾よりも多いらしく、枯葉剤という醜悪な兵器まで使用されたが、この後3年、アメリカは戦争を終わらせることができなかった。
その間に約2万人のアメリカ兵が戦死し、それに比較にならない夥しい人数のベトナム人が殺されていくことになる。
その北爆への意思決定の過程で、「ベスト&ブライテスト」たちは、こんな言葉を言い放つ。
「爆撃に爆撃を加えて、彼らを石器時代まで引き戻してやるのだ」
おぞましい一言である。

そして、おそらく家族法制部会に参集した学者たちも、今後、同じような言葉を言ってのけることだろう。
彼らとベスト&ブライテストたちとの違いは、枯葉剤をばらまくことはないが、共同養育計画をばらまくことである。

(了)

【分野】経済・金融、憲法、労働、家族、歴史認識、法哲学など。著名な判例、標準的な学説等に基づき、信頼性の高い記事を執筆します。