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「好きなことをして生きていくな」という言説が増えてきた?

※全文公開です。おひねりをいただければ幸いです。
日々精進していきます。


ここ数か月で出た本で、
偶然の一致かも知れないが、

好きなことをして生きていくな

という言説をよく目にする。

たとえば、いま現在ベストセラーになっている
『シン・二ホン』では以下のように述べられている

「好きなことをやれ」は正しいけれど、ある意味では正しくないということだ。熱狂的にやるものは、あくまで自分らしくではあるが、他人と自分を異質化できるものであるべきだ。仕事とは他の人に評価される価値を生むことであり、その人の存在意義の視点で見れば、価値が生み出せることは好きか嫌いかよりも遥かに大切だからだ。たとえば、ゲームが好きだからただやるのは中毒に過ぎない。造り手の作った罠にかかっただけだ。人が作った問いに対して、すでに用意されている答えを出しているだけとも言える。ひたすら探求して、自ら新しく問いを生み出せるかという視点で領域を見た方がいいだろう
『シン・二ホン』kindle No.1943

他にも、『科学的な適職』では、

もし好きな仕事に就けて最初のうちは喜びを感じられたとしても、現実はそこまで甘くありません。どんなに好きな仕事でも、顧客のクレーム処理やサービス残業のような面倒ごとは必ず発生するものです。
すると、好きなことを仕事にしていた人ほど、「本当はこの仕事が好きではないのかもしれない……」や「本当はこの仕事に向いていないのかもしれない……」との疑念にとりつかれ、モチベーションが大きく上下するようになります。結果として、安定したスキルは身につかず、離職率は下がってしまうのです。
『科学的な適職』kindle No.367-368

と書いてある。

似たような意見だが、

人間、「好きなこと」の数ってたぶんそう多くありません。だから「好きで生きる」と決めてしまうと数少ない選択肢の中で縛りプレイをしなくちゃいけなくなるし、それでお金を稼ぐとなったら、かなりハードモードなプレイになってしまいます。
プロ奢ラレヤー『嫌なこと、全部やめても生きられる』135頁

と、プロ奢ラレヤーも述べている。


基本的にはおおむね同意である。

そもそも「商品」とはなにかといった原理的な問いを考えれば、
「好き」を仕事にというのは、難しいということが良くわかる。


仕事は私的な活動なのか?社会的な活動なのか?


生産活動というのは、近代以前は社会的なものであった。

例えば、近代以前、村単位で生産活動をしていたと考えると、
自分たちで生産したものは、他の村人に対しておすそ分けしたり、
物々交換をすることができた。

つまり、村単位で分業がなされていたわけであり、
生産したモノは自然と「社会性」を帯びていたのである。
これを社会的分業という。
(年貢といった形で、
最初から社会的な価値があるものとして生産させられていた
と言った方がわかりやすいのかな?)


しかしながら、「商品」はただの生産物とは質が異なる。

なぜなら、商品は、
売れるまではあくまでも「私的」に作られたものに過ぎないからだ。

売れるまで、その商品に「社会性」があるかどうかはわからない。
それにもかかわらず、
商品は私的に消費をしてはならないという矛盾を抱えているのだ。
(近代以前の生産物は、私的に消費することも可能)


近代以前は、社会的な分業が自然となされていたが、
資本主義社会は、私的な分業がなされている。
私的な分業で作られた商品を、売買を通じて社会性を帯びさせる
というのが、現代社会の特徴なのである。

つまり、『シン・二ホン』で書かれている通り、
作り手が好きか嫌いかではなく、
社会的な「価値」があるかどうかが圧倒的に重要になるのだ


よく、就職活動の志望動機に
「御社の商品が好きだからです」
と述べると落ちると言われる。

それは、その企業からしたら
「それではこれからも良いお客様でいてくださいね」
となるだけで、
志望者から社会性という視点を感じられないのだろう。


なぜ「好きを仕事にしてはならない」という言説が増えたのか

さて、議論の問題は、なぜこのような言説が増えてきたのか、である。

そもそも、「好きを仕事に」、「やりたいことをして生きていく」

といった言説が出てきたのは、
80年代にフリーターという生き方が誕生してきたときであろう。

しかし、そんなものは欺瞞であるということは、
2000年代の非正規雇用者の増大によって周知されることになった。


だから、「好きを仕事にするな」という言説が増えた、
というだけの話ではない。


むしろ、「仕事とは何か」を、
フリーターの頃より考えなければいけない時代に来たからではないか、
というのが私の解釈である。

2010年代以降、IT化が進み、
フリーランスの仕事がどんどん増えてきている。

これも、言ってしまえば、
80年代のフリーターの誕生にかなり近いものがあるだろう。

コロナ危機によってすぐ不安定になってしまう経済的な脆弱性や
ウーバーイーツのように、
責任だけ押し付けられている名ばかり個人事業主のような状態は、
フリーター問題と似たようなにおいを感じる。

おそらく大半が、この先いいように使いつぶされて
社会問題になるであろう。

とはいえ、フリーターとの違いは、
市場の成長のためにフリーランスが求められている
という点にある。

シン・二ホンは、まさに、日本がこれから成長するために、
AIを組み合わせた仕事を
多くの国民が考えて仕事を起こすことが必要であることを説いた本である。

孫正義が、投資で大赤字を出してはいるが、
基本的には、大企業はもう、金融事業で稼ぐしかない状況となっている。

詳しいデータは載せないが、日本はここ数十年、
企業全体の売上高は変わらず、
営業利益より経常利益が上回っている状態である。

つまり、本業では稼げないのだ。

だから、多くの人に起業してもらい、当たりそうなところに投資をして、
リターンを回収していくという、
アメリカのシリコンバレーのやり方を
日本もこれからしていく方向へ向かっていくのだろう。

そうなると、好きを仕事に
などと甘っちょろいこと言わず、
仕事が仕事として成り立つように考えろよ
というメッセージになるのではなかろうか。

このような、経済決定論的な解釈でいけば
プロ奢ラレヤーの
「嫌なことをしないで生きていく」
という消極的な仕事論は
フリーランスの中でも意識が低い人向けのメッセージだと言える

意識が高かろうが、低かろうが、
フリーランスという生き方には
「好き」だけを求めてなどいないということだ。


まあ、ホリエモンの『好きなことだけで生きていく』という本や
ZOZOの元社長の前澤などが「好きを仕事に」と言っているので
言説としてはまだ二分されてるというのが現状であろう。

機会があれば、ここら辺も踏まえてきちんと考察していきたい。


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