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フードスコーレ不定期連載『食の未来仮説』#002 ステイホーム期間の食とごみ(書き手:荒井里沙)

今年の3月頃から、日本でもにわかに働き方や暮らし方に変化が現れた。ふと気づけば今年も折り返し地点だ。世界的なパンデミックは異常事態だと引き続き叫ばれながら、もはやそれが常態化しつつあるという側面がある。感性が研ぎ澄まされた激動の日々は、そう長くは続かない。そんな状態が長期間継続すると、人間は精神的に参ってしまう。わたしたちが忘却するのが得意なのは、きっとそういう理由からだ。

暮らしのbefore-after

同じように、ひとたび新しい生活に慣れてしまうと、ずっと続けてきた過去の生活の形を忘れてしまう。だけど、あれだけ自分にとって革命的だった変化の数々を、忘れてしまうのももったいない。自分の身に起こったことを覚えていられるよう、わたしの身に起こった変化を書き下ろしてみる。

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こうして書いてみると、「革命的」と形容するには大げさな感じもする字面だけれど、3月以前には、自分にとってはそうそう起こり得ないものだとたしかに思っていた。そういう意味で、やっぱりこれらは革命的な変化だったのだ、わたしにとっては。

毎日の食をめぐる変化

人間は何らかの理由で生が脅かされると、日々の食や安全な住まいといった、生の根本的な要素に拠り所を求めるようになる。そしてそれらが担保されていることに、ちゃんと幸せを感じられるようになる。私も自炊を通じて、自分で何かを作るということとそれが直接的に自分の生を支えているというささやかな実感を日々感じていた。

一方で、食の業界は大きな衝撃を受け、特に卸業や飲食業は負の影響が大きかった。その中でも試行錯誤を繰り返して、例えば卸業者や生産者が小売を始めたり、飲食業もテイクアウトやお家で楽しめる商品の提供を始めた。そうした業態を支援しようと言った機運も生まれて、BtoCのお取り寄せやテイクアウトは以前よりずっと普及することとなった。今後もこの流れは続いていくことだろう。

食べたらごみ出る

食をめぐる構造が変わるにしたがって、それに伴う副次的なものごとの性質も変わってきた。例えば、「ごみ」がその一つだ。自炊をすると、いかんせんごみが増える。野菜が包まれていた包装材やトレー、野菜の皮や魚の骨と言った調理くずが圧倒的に増えた。また、テイクアウトやデリバリーのプラスチック容器も同様だ。一回きりで捨てるのはもったいないくらい丈夫で綺麗だけど、使うあてもない。そうしたものはやむなくごみ箱行きとなった。

ごみが増えたという私の肌感覚は確かだったようで、実際のところ家庭ごみの量は増えているという。具体的には、2月末から5月初旬にかけて東京23区の家庭ごみ量は前年同期に比べて約5%増だそうだ。

間違いなく事務所や飲食店から出るごみは減少傾向にあるはずなので、ごみの総量は大して変わっていないはずだ。しかし、目に見えて暮らしの中でのごみが増えていったことは、気持ちの良いことではなかった。

そもそもなぜごみに目くじらを立てるのか

子どもの頃、星新一のショートショートが好きだった。彼の作品の中で印象的だったものの一つに、「おーい でてこーい」という話がある。この物語のあらすじを紹介したい。

都会外れのある村に、ある日「穴」が現れる。「おーい でてこーい」と誰かが穴に向かって叫んでも、果たして反響はない。石ころを投げ込んでみても、音もせず吸い込まれていく。次第にその底無し穴は、地上に害を与えずに不要物を捨てられるごみ箱として認識されていく。原子炉のカス、政府の機密書類、都会の汚物。なんでも穴に投げ込めば、目の前から消えてくれる。

「穴は都会の住民たちに、安心感を与えた。つぎつぎと生産することばかりに熱心で、あとしまつに頭を使うのは、だれもがいやがっていたのだ。この問題も、穴によって、少しずつ解決していくだろうと思われた。」

人々はごみのことなど忘れて、経済成長まっしぐらで高層ビルをどんどん建設していく。そんなある日、建設中のビルの鉄骨で一休みする作業員の頭上から、「おーい でてこーい」という声が聞こえてきた。上を見ても、青空が広がるばかりだ。しばらくすると、声のした方角から小さな石ころが作業員をかすめて落ちていった。そうして物語は終わる。

この物語が示唆しているのは、どんなことだろうか。私が読み取るのは、ごみというものが完全に地上から無くなるということはないこと、そしてそれは将来の私たちの暮らしを脅かしうるというメッセージだ。私たちは今、残されている資源を大切にすることと、できるだけ物を捨てないで生活することが必要な社会に生きている。それは綺麗ごとではなくて、数ヶ月後、数年後の将来に関わる生々しい危機の話なのだと思う。

少なくともできること

できるだけごみを出さないで暮らすことは、それほど難しいことではない。例えば、買い物やテイクアウトではマイバッグや容器を持参してみたり、自宅で発酵食品や野菜を作ってみることで、容器や包装のごみを減らすことができる。もちろん、感染リスクが心配であればお店も個人も無理する必要はないけれど、極端に何もできないわけじゃない。

個人の活動なんてたかが知れているけれど、数万人、数億人規模になれば大きなインパクトが生まれる。というのはよくある話だけど、公害問題や人権問題の草の根活動を見てみると、たしかに本当のことだと思う。

感染症という即時的な死を意識させることが身近になって、世界が大騒ぎしている。たしかに、大騒ぎするに値する大変なことだ。しかし、これによって過去に蓄積されてきた環境問題、人権問題、社会問題といった類のものが帳消しになったわけではない。衛生の観点から使い捨てプラスチックやマスクが多用されるようになっても、プラスチックは引き続き生分解されずに地上や海中に残っていく。人種間の差別問題だって、パンデミックによって解消されるはずもなく根強く残っている。残念ながら、私たちは今回の危機に加えて、今まで溜めてきた宿題にもちゃんと向き合わなきゃいけないのだ。

想像力を保つこと

「おーい でてこーい」に象徴されるように、世の中の全てはつながっている。どこかで表面的な便利さや豊かさがあれば、どこかに負担がかかっているのが世の常だ。想像力を働かせてみると、今の暮らしが誰かの犠牲の上に成り立っているものではないか、とふと立ち止まるきっかけになる。例えば、身近な例で考えてみよう。毎日捨てるごみが増えるとどうなるのだろうか。

毎日のごみが増えると、ごみ出しが一苦労だ。ごみ集積所はごみで溢れて、カラスが袋をつついて荒らす。ごみの収集作業員は荒らされたごみを手間をかけて掃除する。増加したごみを車両に詰めきれず、収集が予定通り行えない。追加回収が必要になって、運搬費、人件費、CO2の排出量も増える。家庭ごみは十分に水が切れていない生ごみが多く、焼却炉での焼却効率が悪い。追加で燃料を入れたり、プラスチックを代替燃料として使用し、CO2の排出が増える。CO2が増えると、大気が暖まりやすくなり気候が温暖化し異常気象が増える。強い台風が茨城の農家さんのビニールハウスを襲ってミニトマトを全滅させる。大きなハリケーンがカリフォルニアの街を飲み込んで街並みと家をめちゃくちゃにする。太平洋の島が海面上昇で沈む。

ーーなんていうと、ごみごときで話が壮大すぎると思うかもしれない。だけど、最終的には全てはつながっているので、実はそれほど大げさな話ではない。CO2の増加も気候変動も私たちの捨てるごみ一つによることではないけれど、たしかにその構成要素の一つではある。
「何てことはないだろう」というちょっとした負荷が地球レベルで行われてしまうと、私たちは環境に大きな影響を及ぼしてしまう。だって、今や76億人も同じところに住んでるのだから。
 
こうした話題は、あまり考えを巡らせていると気分が重くなってくる。でも、想像力を働かせるということは、人間に備わっている能力の一つだと思う。想像力をもって物事の因果関係を知ったとき、私たちは次の行動を変えることができる。何か一つの目標に対して、協力して取り組むこともできる。こうした知恵によって人間は生き延びてきて、良くも悪くも繁栄しているのだ。だからきっと、人類は今回の苦境も乗り越えていくだろう。そのためにはまず、思いやりとも言い換えられる想像力を働かせて、自分の暮らしと世界とのつながりを考えてみたい。そして、独り善がりではなくて協力し合うことを忘れないでいたい。

『食の未来仮説』は、さまざまなシーンで活躍されている方たちが、いま食について思うことを寄稿していく、不定期連載のマガジンです。

今回の著者_
荒井 里沙/Risa Arai
1992年東京生まれ。企業の廃棄物処理コンサルタントを経て、等身大でできる持続可能な社会のためのアクションを発信中。「食」のストーリーを知ること、伝えること、そして食べることに目がない。530week所属。


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