フードスコーレ不定期連載『食の未来仮説』#004 しょせんソーシャルアニマル・人間(書き手:荒井里沙)
ヒトは社会的動物である。寄り集まって、密にコミュニケーションをとって、社会なるものを構築して生きている。逆に言えば、そうしていないと生きていけないひ弱なアニマルである。体力や大きさからして、明らかにライオンや象よりスペック低めのヒトがここまで繁栄できたのはなぜなのだろう。それはきっと、社会的動物としてみんなで協力する術をもっていたからだ。
今まで話したこととこれから話すことは、『サピエンス全史』を著したユヴァル・ノア・ハラリ氏から影響を受けた、あくまで私の仮説である。人間をどう捉えるかなんて、いろんな見方があってしかるべきだ。ただ、他の生物より優れていると思われがちな私たち人間も、自然界の一つの構成要素にすぎないことは事実である。そうして全体を俯瞰して世界を見ることは、私たちの未来について考えるにあたって大切じゃないかなと思っている。
感染症の怖いところ
2020年を迎えてから、その整然とした数字の並びに反して、社会には不穏な雰囲気が漂っている。局地的にではなく、世界全体でどんよりしている。それだけのことがあったのだから、仕方がない。新型ウイルスによる世界的なパンデミックと、それによる医療崩壊と経済的打撃、社会不安。しかもこれはまだ全然収束していない。目に見えないウイルスが瞬く間に広がっていく様子はわたしたちを震え上がらせた。
感染症が怖いのは、もちろんその感染力や致死率も関わるけれど、何より社会的動物である人間のもつ「物理的なつながりや交流による互助」という特性を殺しうるということだ。親しい人の手をとって看病してあげられない、家族同然の仲間たちに会えない。こうしたことがどれだけ心身に悪影響を及ぼすか、私たちは身をもって思い知ることとなった。
人間の強いところ
とはいえ、そんな状況にあっても私たちは色々工夫して障害を乗り越えようとする。そこが人間の強いところだ。物理的につながれなくても、現代の通信技術をもってすれば遠隔でコミュニケーションすることができる。もちろん全世界の人がすべからくインターネットにアクセスできる環境にあるわけではないにしても、多くの人が暮らしの場面のオフラインからオンラインへの移行を経験したことだろう。リモートワークをはじめ、zoomでのオンライン会議、飲み会、いつもはろくに話さない家族とのLINE通話。あくまでつながることを志向するのは、やっぱり私たちが社会的な動物だからだろう。
かえって、身体的な接触に制限があると新しいコミュニケーションの方法が編み出されたりする。例えば、首相が部屋着でSNSを通じて直接国民に語りかけたり、アパートのベランダで近所の人と乾杯したり、演奏会を楽しんだり。そうした人々の交流シーンは、家にこもってばかりで疲弊した私たちの心身を癒してくれた。
▲ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相の誠実で太陽のような語りかけは多くの人を勇気付けただろう
▲アパートのバルコニーで乾杯を楽しむイタリア人たち
他にも、人々の良心にもとづく自発的な協力にも目をみはるものがあった。インターネット上には、感染症対策の正しい知識を伝えるための啓発ポスターや手作りマスクの作り方などが瞬く間に広まった。はたまた、医療関係者を支援するためのポータルサイトが開設されたり、人気のオンラインゲームに休校中の子どもたちがDVの相談ができる窓口が設置されたり、枚挙に暇がないほどの取り組みが生まれている。お互い無闇に壁を作っては対立しがちな私たち人間も、有事の時にはちゃんと手を取り合って協力し合うこともできるのだ。数々の事例は、先の見えない暗闇の中に見えた光明だった。
食をめぐる新しい動き
食に関するところでも様々な協力のかたちを見ることができる。例えば生産者と消費者をつなぐ活動やクラウドファンディングでの飲食店の支援などが活発に行われていた。また、家庭レベルではYoutubeの料理チャンネルやオンラインの料理教室にお世話になった人も多いことだろう。こうした取り組みは、農家やシェフといった私たち生活者にとっては遠い存在に感じていた人たちとの距離を狭めることとなった。直接ファーマーズマーケットやお店に行ったりして交流をはかれないからこそ、工夫を凝らして新しい方法を編み出したわけだ。少しずつ人の流れは活発になりつつあるにしても「元通り」にはならないだろうから、これからもオンラインでのつながりや助け合いは大切になるだろう。
私たち人間の可能性
「郡知能」というものがある。アリや鳥の群れが一つの生命体のように秩序ある行動を生み出し、個々の能力の総和以上の結果を生むというものだ。もしくは「スイミー」のあれ、と言えばわかりやすいかもしれない。
ヒトにも郡知能があるという話を読んだことがある。集団心理や、消費動向、世論などがそれにあたるのかもしれない。そういうものには、戦争とかマーケティング戦略とか、なんかきな臭い話題がつきまとう。だけど、もっとポジティブな方向でも郡知能は働くんじゃないだろうか。個々人の頭の中の「自分の周りの人が無事でいて欲しい」とか「頑張っている人たちをサポートしたい」とかいう考えのちょっとした発露が、例えばちょっとした声かけとか寄付とかそういうものが、まとまると大きな力を生むことがあるんじゃないだろうか。
人権問題、気候変動問題などなど、パンデミックの前から着々と溜めてきた宿題は解決していないし、相変わらず隙さえあればいがみ合う私たちだけど、一人ひとりの志向によっては明るい未来を期待できるのかもしれない。この期間に、私はその可能性を見た気がする。
一匹だと心許ないけど、みんなが寄り集まれば想像以上の力を出せる。絵本の話は真に受けて感動できるくせに、自分たちのこととなると急にニヒリズムに陥いって、自分たちの可能性を信じようとしない。なんとなく、私たちってそういうところがある気がする。一人ひとりの頭の中まで一緒にする必要はないし、そんなの気味が悪いけど、それぞれの信条や思考が違っても集団としてより良い方向に向かうことができるなら、それ以上に望むことはないんじゃないかと思う。それがヒトが今まで繁栄してきた方法論だし、おそらくそれはこれからも変わらないのだと思う。
今考える「持続可能性」
「持続可能性」とか「サステナビリティ」とかいう、最近よく見る言葉がある。大辞林によると、こんな具合に定義されている。
「生物資源(特に森林や水産資源)の長期的に維持可能な利用条件を満たすこと。広義には、自然資源消費や環境汚染が適正に管理され、経済活動や福祉の水準が長期的に維持可能なことをいう」
なんだか、わかるようなわからないような感じだ。もうちょっと身近な言葉に寄せてみたい。
私たちはまだまだ生きながらえたいし、豊かに暮らしたい。そんな純粋な望みを達成するためには、それに見合った環境と社会が必要だ。現状を見てみると、地球温暖化や生物多様性の喪失、差別や貧困問題エトセトラと課題が山積している。これらに適切に対処して、住みよい場所を築いていかないといけない。そのために必要になるのが「持続可能性」という視点なのだと思う。
暮らしと食の未来仮説
パンデミックを経験した今、人々は持続可能性をより切実に求めていくんじゃないだろうか。身近に命の危険を感じた私たちはおそらくこの先、より長く命を持続させるために躍起になるだろう。どんな困難も乗り越えてきたヒトのしぶとさたるや、大したものである。
ただし、人類の繁栄と持続可能性の間にはジレンマが潜んでいることに気を付けたい。そのジレンマとは、人口が増加し経済的に発展すればするほど、地球環境に与えるダメージも比例して増えていくというものだ。では、人類の繁栄と持続可能性の両者を保証するにはどうしたらいいのだろう。
この問いに対して、果たして明快な答えはない。結局のところ、みんなで知恵を絞るしかないのだ。社会的動物としての私たち、一人では生きていけない私たちだからこそ、つながりを意識しながら協力して行かないといけない。そこでは短期的な損得勘定だけじゃなくて、長期的な視点を持つことが大切になる。
それは毎日の食について考える時も同じだ。誰が作ったものを、誰と一緒に食べるか、どれだけ時間の余裕をもって食卓を囲むか。その一つひとつの選択の背景に、自分や身の回りの人、そしてちょっと先の未来を思いやる心をもっていたい。その思いや行動がひとまとまりになれば、社会全体だってより良い方向に変えられる。しょせん社会的動物にすぎない私たちは、しかし社会的動物であるからこそ、どんなに課題を抱えていようともそれを乗り越える力をもっているはずなのだ。
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『食の未来仮説』は、さまざまなシーンで活躍されている方たちが、いま食について思うことを寄稿していく、不定期連載のマガジンです。
今回の著者_
荒井 里沙/Risa Arai
1992年東京生まれ。企業の廃棄物処理コンサルタントを経て、等身大でできる持続可能な社会のためのアクションを発信中。「食」のストーリーを知ること、伝えること、そして食べることに目がない。530week所属。
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