生きた感情のある宗教画
リニューアル初日の西洋美術館に、子どもを預けてふらりと行ってきた。誤算だったのは、楽しみにしていた「フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで」という企画展がまだ始まっていなくて、常設展しか見られなかったこと。けれど十年ぶりくらいだったので、それでも楽しめた。
コルビジェの吹き抜けをあがって、まずはじめに出会うキリスト教の宗教画たち。十代の頃からあまり興がのらなくって、あのときはエルグレゴしか面白いと思えなかった。なんだか血が通っていないんだもの。いかにも「宗教」ってかんじで。
久しぶりに会ったエルグレゴは、キリストの表情がとっても良かった。「月と六ペンス」のことばを思いかえしながら見ていた。
ヴェラスケスの方が上手い、と言い切ってしまうところがわたしには受けた。確かにそうだけど、絵がぜんぜん違うんだもの (同時代のひとだったらしい)。上手いけれど動かされない絵たちのあいだで、気に入ったのがエルグレゴのほかにもうふたつ。
ひとつは十五世紀の、はしばみ色の目をした青年の絵。これは宗教画ではない。中世のひとと見つめあうのが、なんだか背中の毛が立つようなかんじがした。このひとも生きていたのだ。
もうひとつがドラクロワの「墓に運ばれるキリスト」。夜の暗闇のなか、岩のあいだの階段を松明の灯りにみちびかれて、ぐにゃりとしたキリストの死体を墓に運んでいく絵。これだけは、感情があった。
説明にはこうあった、
『しばしば病に苦しみ、また親しい友に
先立たれた晩年のドラクロワの悲劇的な
感情が、作品本来の深い宗教性と一つに
溶け合っている』
血の通った宗教画だった。血を流して死んだ、キリストの絵だけれど。生きた感情のある絵。わたしもキリストについて、血の通った、いのちのある文章を書きたいと思う。自分の知っている神について、自分の感覚に馴染むことばで書きたい。わたしにとってキリストは「宗教」ではないから。生きていて、日々をともに暮らしている神だから。
墓に運ばれるキリストの絵を見ながら、わたしはその三日後に思いを馳せて、しずかに心を震わせていた。世間はいま復活祭を祝っている。死んだキリストが死体のままで朽ちたのなら、わたしは今頃仏教にでも帰依していたことだろう。キリスト教の本質は、三日後にその墓が空っぽになっていたことにある。
キリストは蘇り、いまも生きている! わたしのなかにも、キリストの霊は宿っている。日常の雑音に埋もれず、感覚を研ぎ澄ませて、キリストとともに暮らすことへ意識を向ければ、キリストはわたしの暮らしのいづこにでも宿っていて、ふれられるように近しい。荒唐無稽だと、嗤われようともかまわない。
イエスは言われた、
『わたしは復活であり、命である。
わたしを信じるものは、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、
決して死ぬことはない。
このことを信じるか?』
いま、二十一世紀を生きている人間が、二千年前に死んだはずのキリストを現実のひととして、現在形の神として感じ、そして信じていることを、日本語で表現してみたい。そのためにことばを綴っている。
ドラクロワの絵みたいに、わたしは生きた感情のあることばを綴りたい。わたしにとってのキリストは、死んだままではないのですもの。
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