こゝろの割礼
あまりにも長い間、敵に踏みにじられるのを許してしまった。忙しさと倦怠感がうすい皮膜のように重なって、キリストというひとを遠く、ふれられもしない、なにか現実味のない存在に遠ざけてしまった。頭ではなく、心で彼を感じることが出来ないので、短歌を作ることも、文章を書くこともできなかった。そこを押し通してしまうなら、わたしは偽善者になってしまう。
流行り病の後遺症だったのだろうか、だるさと頭痛がして、なにもする気がしなかった。風邪を引くまではいかに他人のために自らを費やすか、ということをテーマにして生きていたのに、動く気がせず、いままで情熱を傾けてきた、キリストについて書くことさえも、諦めてしまおうか、というようなやる気のなさに覆われて、じぶんがなんのために生きているのかさえわからなくなってしまった。
「こういう時、どうしたらよかったんだっけ?」
わたしはじぶんに問うた。寝ているあいだ、ずっと聖書の朗読を流して聞いていた。みことばはわたしのなかにある、という自信はあった。ただキリストが霞んでぼやけてしまって、進み続ける意欲が失われてしまった。そんなわたしに「善を行うことに倦み疲れてはならない」と主は囁いていた。けれどキリストが遠くに感じられるとき、たゆまずに働き続けるのは難しいことだ。
「賛美するべき時は二種類ある、賛美したい時としたくない時だ」
無理やり身体をうごかして、皿を洗っているときに、ふとその言葉を思いだした。わたしのなかの感覚がすべて鈍って、なにも感じられないような時、キリストが遠くって、現実に感じられないような瞬間に、わたしは賛美することを選んだ。
その選択は、一瞬で家の空気を変えた。逆手に握ったナイフで、じぶんの心を突き刺すかのように、賛美は硬くなった心臓の皮膚をつらぬいた。まるでふたたび心に割礼を受けたかのように、キリストがすぐそばに感じられるようになった。キリストという人物が、わたしと一緒にいて、わたしの心はもう硬くなどなかった。彼との関係に積もった埃は、一瞬で吹き払われてしまった。
わたしはキリストを愛していて、ほんとうにそれ以外に生きている理由などないのだ。まだわたしの心には、刃物で削ぎ落とされたあとのぞくぞくとした感覚が残っている。
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