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わたしの「宝物」紹介 - 釧路江南ハンドボール部


わたしはこれまで「友人に恵まれている」と度々書いてきたのだが、そのことを象徴する話を書きたい。


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話は高校時代に遡る。


わたしは小中と7年間、野球をやっていたのだが、地元の先輩に誘ってもらい高校ではハンドボール部に入ることにした。

野球も大好きだったけど、野球にはないスピード感やチームメイトと連動して攻めたり守ったりする感覚が新鮮で、入部早々のめり込んだ。


ただ残念なことに、わたしが入部した5月の時点で1年生が3人しかおらず、そこからわたしは友人の勧誘に奔走した。

その甲斐もあってか、秋口には1年部員が8人まで増え、7名でプレーするハンドボールの1チーム分は確保することができた。


そして2年生になり3年生が引退。わたしはキャプテンに任命された。

ハンドボールが大好きだったし、チームメイトも大好きだった。そして先輩たちが強くてかっこよかったから、自分たちの代も先輩方に恥じない、強いチームを作りたいと思った。


その気持ちがそこそこ空回りしていた。

「強くありたい」「強くなければならない」毎日そう思っていたし、チームメイトにもそれを強要した。うまくいかないことがあるとわたしはイライラし、怒った。不満をチームメイトにぶつけた。

「それくらい止めろよ」
「なんでそこでミスんだよ」
「なにやってんだよ」

平気でそんな言葉をチームメイトにぶつけていた。「平気」でいられるほど、わたしは取り憑かれたように「強くなること」に囚われていた。自主練をするのが当たり前。ハンドボールが楽しくて当たり前。楽しいからやる。勝つためにやる。


そんなストイックさについてきた人も多少はいたが、ほとんどの部員が辟易していたと思う。


そして3年生になる少し前、試合後にチームメイトから「話がある」と呼び出された。試合会場だった学校のホールに行くと同学年の7人全員が待っていて「hikoのやり方は違うよ」と言われた。「hikoのやり方、考え方が変わらないなら、おれたちはもうついていかない」だいたいそんなことを言われたと思う。


帰り道、自転車を漕ぎながら「やっぱそうだよな」と思った。自分でも気づいていた。自分の言動が人を傷つけ、チームの結束を壊し、人のモチベーションを下げていること。そして自分が感情を抑えられない人間だということ。

キャプテンになってから1年近く、ずっと悩んでいた。感情がこんなに抑えられない人間だと、自分でも知らなかった。その自分の至らなさを「チームが弱いのが悪い」と転嫁していた。その無責任さにも気づいていたけれど、そこにしか感情の逃げ場がなかった。強くさえなれば全部解決する。そう思うようにしていた。


チームメイトとは部活外でも仲が良かった。部活の合間にごはんに行ったり、カラオケに行ったり、下宿していたわたしの部屋に集まってゲームをしたり、悪いこともみんなでやった。


そんな彼らに「おまえについていかない」と言わせてしまったんだと思った。試合後に学校のホールで言われたときはショックが大きかったせいか、悲しみや申し訳なさのような感情は生まれなかった。

下宿先の部屋に着き、一人で考えていた。彼らは心を鬼にして、出来るなら口にしたくない言葉を、7人で悩んで、やっと伝えた。それがさっきだったんだなと、思った。


それに気づいた瞬間、涙が溢れてきた。申し訳なさと悔しさが一気に溢れた。暴言は吐いていたけれど、ある程度はキャプテンとしての責任を果たせていると思っていた。多少の自負はあった。

本当に申し訳ないと思った。「楽しいから一緒にやろう」と誘った仲間たちに、そんなことを言わせた自分が心底イヤになった。大好きな友人たちを悩ませ、絶対に言いたくないことを言わせてしまった事実から逃げ出したかった。

かといってどうすればいいのか。自分の理想は叶えたい。でも能力がない。みんなをモチベートして強くなる、そんなキャプテンに俺はなれない。


そのとき、メールが届いた。わたしに苦言を呈した一人だった。

「今日はごめん。つらかったよね。でも勘違いしないでほしい。みんな、おまえの気持ちわかってるから。絶対、全道大会に行こう」


そのあともメールが何通も届いた。どのメールも、部員からだった。

「ごめんな。でも、これで俺たちはもっと強くなれると思う」

「しんどいこと言ってごめん。でもhikoならわかってくれると信じてる」

「全道に行こう」

だいたいそんなことが書いてあった。


いつも「諦めないのは自分だけ」だと思っていた。

だけど違った。


諦めているのは、自分だけだった。

彼らは誰よりも自分たちを信じ、わたしを信じてくれていた。


もっと、強くなろうと思った。

自分のためじゃなく、みんなのために。

それからわたしは、それまで追い求めてきたものとは違う性質の強さを、求めるようになった。



数ヶ月後、わたしたちは目標としていた全道大会(北海道大会)に釧路地区の代表チームとして出場。

わたしがどこまで振る舞いを改善できたかはわからないけれど、あれ以降、わたしたちは良いチームになれたと思っている。


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卒業アルバムに、わたしが一番怒鳴りつづけていたキーパーのやつが、汚ない字で別れの言葉を書いてくれた。

彼は1年の秋、わたしのしつこい勧誘に根負けしたのか、中学から続けていた卓球部を辞めて、ハンドボールのキーパーになった。

それでよかったのか、ずっと考えていた。


わたしの卒業アルバムには仲の良かった女子たちのメッセージが色鮮やかに並んでいるため、黒字で書かれた汚ない文字の羅列は、卒業から17年経った今でもすぐに見つけることができる。


hikoは練習や試合でいつも怒っていたけど、そのおかげでハンドボールを好きになれた。おまえがキャプテンでよかったよ。江南ハンド部最高!


ほんとかよ、と笑いそうになった。

でも、彼がお世辞を書けるような器用な人間ではないことを、わたしは知っている。


このメッセージのおかげで、わたしは今現在も、至らない自分を受け入れることができているのかもしれないと、そんな風に思う。


そんな、人生の宝物のような3年間だった。


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卒業後、わたしは小樽の大学に、下手くそだったキーパーは釧路の大学に進学した。


彼ら以外とハンドボールをやる想像がつかなかったわたしは、他のサークルや部活動の勧誘コンパをしばらく練り歩いていたが、やっぱりハンドボールがやりたくてハンド部に入部した。


迎えた春の大会

わたしが放った記念すべき大学初シュートは、互いをよく知るデブで下手くそなキーパーに防がれた。

「球は速いけど、コースがバレバレ」

試合後、敵になった彼の嫌味を聞かされて、初めて彼が積み上げてきた努力の量を知った気がした。


それから4年間、わたしが怪我をして離脱した期間を除き、定期的にハンドボールコートで顔を合わせ、互いを罵り合った。


「相変わらず下手だな」

「おまえももう落ちたな」


高校時代に同じチームで北海道大会を目指した戦友と、今度はインカレの座を巡り敵として戦う。本当に貴重な、楽しい時間だった。


それ以来しばらく会ってないけど、彼は高校の頃から目標にしていた教員になったと噂で聞いた。

そりゃそうだ。あれだけハンドボールに本気になった俺たちの夢が叶わないはずがない。

俺も頑張ろう。

そう思った。


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そんな話を先日、当時副キャプテンだった友人としていた。


「hikoも大人になったんだね〜」


きっと彼が一番大変だったろうに「大人になったね」と笑って済ませる彼を見て

友人に恵まれた

と思わずにいられるだろうか。

そして、やっぱり俺ってイヤなやつでしょう?笑


引き寄せの法則じゃなくて、本当に運がいいんです。

みんな、ありがとう。

これからもたぶん迷惑かけるけど、よろしくね♡


いつか、8人で集まれる日を楽しみにしています。


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