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ゲームが悪者だった時代

こんばんは、飛び亀です。

今回は電子ゲームの功罪……いや、「テレビゲームは悪」と言われていた(言われている)話について、少し語ってみます。

「ゲームは一人で遊ぶもの」という偏見

「ゲームなんかやってないで、友達と遊びなさい」
のような発言が、かつては各家庭で飛び交っていました。

皆さんは、どう思いますか?

「ゲームは友達と遊ぶもの」

テレビゲームを悪とする考え方には、少なからず「ゲームは一人で遊ぶもの」という認識が含まれていると思います。(今でもこの考えを根底にしてゲームの危険性を語る人が少なくありません)

「ゲームは一人で遊ぶもの」……いや、百歩譲ってこれが間違いではないとしても、それこそ昭和50年代……1980年代以前の論理です。僕の知らない時代のことです。

僕がテレビゲームで遊び始めたのは90年代。
この時点で、ゲームは友達と遊ぶものでした。だから、子どもの頃から「誰が一人で遊んでるの?」と、疑問しかありませんでした。

「ああ、確かに友達と遊ぶゲームもあるけど」じゃありません。友達と遊ぶためのゲームが大半です。「ああ、確かに一人用のゲームもあるけど」というのがこちらのセリフでした。ニンテンドー64はコントローラーを4つも接続できるゲーム機でした。ゲームボーイも、通信ケーブルを使うゲームがどんどん増えていきました。

明らかに子どもたちはそうやって遊んでいるのに、大人たちはずいぶん長いこと言い続けました。「ゲームなんかやってないで友達と遊びなさい」と。

そのようなセリフがやっと聞こえなくなってきたのは、10年、あるいは20年経ったくらいでしょうか。

それは、携帯ゲーム機(DSとか)の普及率が上がり、「友達とゲームをしている」子どもたちの姿が公園でもどこでも見られるようになったからかもしれません。(ゲームしてないで公園で遊べ、というのが代わりの声になりました)

ネットの普及で消えた「一人用ゲーム」

もうひとつ、ネット環境の普及も、かのセリフが消えた原因かもしれません。

かつてRPGなどの一人用のゲームは、一緒に語れる友達が一人もいなければ、確かにコミュニケーションには繋がらないものでした。一人用ゲームを一人で楽しんで終わり。こういうごく一部の遊び方を見て、「ゲームは一人で遊ぶもの」という偏見が生まれたのでしょう。

しかし一人用ゲームだって、一緒に語れる友達さえいればそれはコミュニケーションの糧でした。むしろコミュニケーションのためにゲームを進めることだって当たり前のことでした。「ここまで進んだぜ」「あの展開すごくね」と、語り合うためにゲームをするのです。ゲームをする→友達に感想を語る、というだけではありません。友達付き合い→ゲームというベクトルもあります。

こうした一人用ゲームのコミュニケーションツール化は、ネット環境の普及により一層進みました。そりゃそうです。ネットがあれば誰とでも繋がれるのですから。同じゲームをやっている友達を見つけ出すのも、友達に同じゲームをさせるのも、リア友だけでは限界があります。しかし、ネット界隈なら検索一つで仲間を見つけることができます。

こうして、誰とも繋がれないような「真の一人用ゲーム」は、ほぼ全滅したと見てよいでしょう。

大人向けゲームの再拡大

もともと、電子ゲームというのは別に子どもを狙い撃ちしたものではなく、大人にも受けていたものだと思います。インベーダーゲームなんかは、老若男女問わず遊ばれていたものと聞きます。(本当?)

ただ90年代は、大人向けゲームもたくさん出ていたものの、子ども向けゲームの本数が一気に増えた時代だったのだと思います。一方、ジェンダー女の子にも刺さるように作られたゲームは比率的に少なめで、「ゲームで遊ぶのは男の子かオタクか」みたいな偏見が蔓延していました。

たぶん「ゲームは一人で遊ぶもの」という偏見も、子ども向けゲームとオタク向けゲームを混同したところからなのでしょう。好意的に見れば。

ところが世は少子化。
各ゲーム製作会社は「これじゃ駄目だ」と気付き始め、00年代ぐらいから「一般受け」を狙い始めたのです。正確には90年代当時も別に子どもだけを狙って制作していたわけではないでしょう。でも先のような偏見を吹き飛ばすには、改めて「男女問わず」「大人も遊ぼう」を強く押し出す必要がありました。

そういう意味では、ゲーム内容そのものよりマーケティングや広告を変えたのかもしれませんね。印象的なのはやはり任天堂。どう森、ピクミン、そしてポケモンも大人を狙ったCMが増えました。

極めつけはスマホゲームです。
誰もがスマホを持っている現代。ここに本格的なゲームが参入してきたことで、今やゲームを遊ばない大人の方が少なくなった。そう言っても過言ではないでしょう。

僕だって「大人になったら自然とゲームを辞めるのかな」と思っていましたが、一切辞められていません。でもこの状況なら仕方ないのです!(自己肯定)

これだけ大人がゲームで遊んでいるのですから、「ゲームは一人で遊ぶもの」なんて事実からかけ離れたことを言う人は少なくなりました。

しかし、「ゲーム依存症」「ゲーム障害」なんかを絡めた電子ゲーム批判には、未だに「ゲームは一人で遊ぶもの」というカン違いが漂っている気がします。「ゲーム依存症の人って、ゲームばかりやって家に引きこもっているんでしょ」というイメージがまさにそれです。

「ゲーム依存」は本当にゲームへの依存なのか

その前に「ゲーム依存」とは何でしょうか。

世界的には、WHO(世界保健機関)が「ゲーム障害」という診断名を付け、「障害・病気」として医学的に扱う(治療・記録・報告する)ことを決定しました。内容としては、いわゆる電子ゲーム類のプレイに依存してしまうことで、本人や周囲の生活に重大な障害を及ぼしている病態を指すようです。

ここではオンライン・オフラインやゲーム内容を問うことなく、とにかく電子ゲーム類全般への依存を前提としています。

この「ゲーム障害」が学術的・医学的に語られている場面は良いのです。
が、どうも一般的に話の種になる際に、あらゆるテレビゲームを含めて「依存の危険がある!」と語られることが散見されます。

確かに休みの日はずっとゲームをやっちゃうとか、通勤通学中もずっとゲームをやっちゃうとか、自分や身の回りと重ねてみるとゲーム依存の入り口は見えやすいですよね。この直線上にゲーム依存症が存在するんだ、これ以上辞められなくなったら自分も(あるいは息子娘が)ゲーム依存症になるかもしれない。ゲーム依存症は、ニコチンやアルコール以上に身近に感じる病気かもしれません。

ただ、「ゲーム障害」が病気として採用されるまでの流れの中では、もともと「インターネットゲーム障害」という名前で扱われることもありました。
というか、もともと大きな問題になっていたのはインターネットゲーム(いわゆるオンラインゲーム)への依存だったのです。

もちろんマリオでもカービィでもポケモンでも依存症みたいに見えるゲーマーはいますし、実際に日常を損なう(仕事や学校に長期的に行けなくなる、など)可能性もゼロとは言い切れません。だからこそ、WHOも「ゲーム障害」の名ですべてのゲームを含みました。

しかし、元来はこれ、オンラインゲーム依存症の話なのです。
日常を損なうまでの依存に移行する可能性が高いのは、オンラインゲームなのです。

よく語られる原因としては、まず「ゲームの終わりがないこと」(アップデートが繰り返される)が挙げられます。そして、もうひとつ重要なオンラインゲームの特徴としては、リアルタイムに現実の他者プレイヤーとやり取りしながら進めるという「リアルタイム対人要素」が挙げられます。

僕はここが非常に大きな要因であると思っています。
ゲーム依存症が本当にゲームへの依存なのかと考えたときに、大抵の場合は何割か対人関係への依存も含んでいると思うのです。

学校へ行かずにオンラインゲームに籠もるのは、ゲームで一人の世界に入り込めるからではありませんオンラインゲーム上の対人関係のほうが、学校の対人関係よりも幸福だからです。

全員とは言いませんが、非常に多くの場合にそういう原因も含んでいると思います。だからゲーム依存症を考えるときには、どちらかというとSNS依存に似たような捉え方をしなければならないと思っています。

何度も述べているとおり、決して「ゲームは一人で遊ぶもの」ではないからです。

「ゲームばっかりしてないで勉強しなさい」という矛盾

さて、もう1つだけ少し違う話を。

ゲームにハマる(下手すりゃ依存しているようにみえる)お子さんへの声かけとしてよくあるのが「ゲームばかりじゃなくて勉強しなさい!」
こちらは、今でもたくさんの方がおっしゃっていますね。

そりゃ宿題はやんなきゃだめですけど、その根底には「ゲームは頭悪くなるもの」、いや下手すれば「娯楽=頭悪くなるもの」という考え方が蔓延っているんじゃないでしょうか。

僕は「臨床心理学」という学問を最近学んだのですが、これのいいところは人の営みを何ひとつ否定しないことです。人生に無駄などないと考えます。
そういう物の見方をしていくと、「ゲーム=悪」「娯楽=悪」というのは視野が狭まってしまっているとしか言いようがありません。

視野を広げましょう。
人生に無駄などありません。
つまり、勉強にならないことなどありません。

テレビゲームで学べることは、ボードゲームやカードゲームに勝るとも劣らない。また、映画や音楽、読書にも、運動にも劣らないところがあるのです。なぜならゲームには映像があるし、ストーリーがあるし、音楽もあるし、手は動かすし、時に身体も動かすからです。

世の中の多くの人は「屁理屈ねぇ、質の良さを考えなさい。映画が10ならゲームシナリオなんて3でしょ、クラシックが10ならゲーム音楽は2でしょう、運動なんてカラオケ以下よ」と思っているのですが、少なくとも僕はそう思いません。

泣ける映画と泣けるゲームは同じくらいあります。
ゲーム音楽の良さは別記事で語ったとおりです。
運動はまあ……
あと先程から話しているとおり、ゲームはコミュニケーションの礎にもなります。

どうしても俗な感じが抜けきらなくて、ゲームと学びは切り離されがちですよね。でも、ちょっと調べればゲームを学習に使っている例なんていくらでも出てくるじゃないですか。

子の勉強のために図鑑や全集を買い与える親御さんと同じように、子の成長のためにゲームを買い与えることがあっても良いのではないでしょうか。

もちろん、ゲームの中にも質ってものがあります。
それでも僕はマリオカービィで手先を鍛え、ポケモンやFEで思考を伸ばし、テイルズで哲学を知りました。RPGツクールやはじめてゲームプログラミングで創造とプログラムを学びました。

将来の仕事としても「プロゲーマー」「e-sports選手」がある……というのは、まだまだ時代的にオススメできるものじゃないですが。
それでも「オタク」というイメージも強くて一部の界隈で有名になれるだけだったゲーマーも日の目を見始めているのが最近です。彼らだって引きこもりのオタクとは全然違って、ゲーマー同士で積極的なコミュニケーションを取っているのが常。特に最近はチームを組むゲームも多く、e-sportsなんかはチームスポーツの大会になっている印象です。

漫画ともども「ただの俗な娯楽」を抜け出し、ゲームも文化として扱われる時代になってきました。とりあえずゲームを悪者にしておこうという考え方は、そろそろなくなったらいいのになぁ、と思います。

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