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承認、診断、知識伝授、学習支援

逆説的だが、教育にヒューマニズムを求めずに、教育の外で調達した方が学習者は救われるのかもしれない。「承認」と「診断」を役割的に切り離すべきではないか、という意味である。

しかし「知識伝授」と「学習支援」を誰が行うか、ということと、これらのうち「公」が担うべきなのはどの役割か、という点については議論の余地がある。

承認については、「診断結果」に関わらず無条件で学習者を承認できて、かつそれを学習者に「よい」影響を及ぼす形で行える人材を必要な数調達できるのか。一方、どんなに「一般的に優秀」な教師であっても、それが承認という観点から個々の多様な学習者におしなべて「よい」影響を及ぼせるか(少なくとも害を及ぼさないか)。その役割を家庭や共同体に委ねた時よりも一般に「マシ」かどうか。この三点により、その役割を公教育に委ねるべきかどうかが決まってくるだろう。

「教育」と称されているものに幾つかの異なる機能・役割が混ざっており、それを腑分けして適切なセクター、プレイヤーに割り振る必要があるのかもしれない。また、「診断」を教師に人質に取らせないために、また、教師自身の精神的負担を考慮しても、診断機能をアウトソースするという対策は有効だろう。

しかし、「知識伝授」はともかく、「学習支援と承認」を初等中等教育のような国家規模の一斉教育システムで等質に行えるかというと、教員の質と生徒の多様性という観点から、難しいと思う。

教育制度を原則的に自由化(チャータースクール、オープンエデュケーション等)して多様な生徒のニーズに応える機会を確保しつつ、その多様な選択肢を選ぶ社会資本を持たない生徒のために、セイフティーネットとして従来の教育制度も維持する、というのがよいのではないだろうか。

しかし一方でマクロには、結局「アウトソースした診断機能」で高評価を受けるようようにシバきあげてくれるような教育が、市場的にも行政的にも求められ、選抜されていくのではないかという危惧もある。アメリカのNPM的教育改革には現にその傾向がある。もちろんそれでも、オルタナティブがあるだけ格段にマシだろうが。

ただし今後、オープンエデュケーション、反転授業が一般化してくると、こういった状況は劇的に変化するかもしれない。私は今のところ率直に言って、「承認という役割を担う者」に対して相当な警戒感がある。それは、「承認」は意図するせざるに関わらず様々な目的の道具として利用できるからである(もちろん一方で、承認という役割が総体として社会全体に欠乏しているのではないかという危惧もあるが)。

しかし、反転授業のような形式が一般化すると、「知識伝授」の部分の機能が免除されるため、「承認という役割を担う者」の負うべき機能は軽減され、かつ、これまで以上に多様な選択肢が生じると思われるので、このような警戒感の根拠は変わってくるかもしれない。

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