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「現実とはフィクション」(2023年6月)

●6月2日/2nd Jun
芝公園の中にある丸山古墳をフィールドワークする。今回はトリフィールドメーターを持って諸々計測もしたが、もう少し手法の検討が必要。丸山古墳とその麓にある円山随身稲荷大明神は増上寺の裏鬼門にあたり、ここは洪積層の地盤上だ。ここより下は縄文期には海だった。

当時の岬にあたるこの場所に増上寺が作られ、東京タワーが作られていることは偶然ではないように思える。我々が考えている以上に現代というのは古代からの影響を受けている。それを知っている者は意図的に場の力を利用するのだが果たしてどうなのか。

●6月3日/3rd Jun
風景観察官

あの林は
あんまり緑青を盛りすぎたのだ
それでも木がさうなのならしかたないが
また多少ブウルキインの現象にもよるやうだが
も少し雲から橙黄線を送ってもらふやうにしたら
どうだらう
ああ何といふいい精神だ
株式取引所や議事堂でばかり
フロックコートは着られるものでない
むしろこんな黄水晶の夕方に
まつ青な稲の槍の間で
ホルスタインの群を指導するとき
よく適合し効果もある
何といふいい精神だらう
たとへそれが羊羹いろでぼろぼろで
あるひはすこし暑くもあらうが
あんなまじめな直立や
風景のなかの敬虔な人間を
わたくしはいままで見たことがない

宮沢賢治

●6月5日/5th Jun
今週の8日の木曜日に5年ぶりにMCEIで講演します。18:35から新大阪のエブリグランデです。会場の定員は30名ですが、まだ講演聞かれたことない方は是非。オンラインもあるようです。
 マーケッターの会なので、コロナ前には「まなざしのデザイン」の話を中心にモノの見方をどうデザインするのかを話したが、今回は「まなざしの革命」の話を中心に。
 著書の中には「広告」という章があり、そこではマーケティング技術によっていかに我々のまなざしが誘導されているのかに触れた。今のマーケティングはかつてのように我々消費者のまなざしを「分析」するだけではなく、「誘導」し、時に「捏造」することで、その延長線上に商品やサービスを配置する。
 マーケティングは既に生産や製品や販売といった対象物の管理などは課題ではなくなり、とっくに我々消費者の意識をいかに管理するのかに移っているが、これからは我々の無意識を管理するために生体情報が管理される時代となる。その先にどういう社会が控えているのかについてマーケッターの方々の意識を少し探ってみたい。

●6月5日/5th Jun
テレビは持っていないが、NHKがナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」を取り上げたとか。局の内部も一枚岩ではないということか。それとも、それこそ両建か。拙著の革命でも一言だけ引用したが、次のマーケッターの会での講演で少しだけ触れてもいいか。

●6月6日/6th Jun
ここのところ大学院の講義はディスカッションスタイルにしているが、前回くらいから学生たちの様子が変わってきた。こちらから教えたいこともあるのだが、まだ聞く準備が出来ていない状態で話しても伝わらない。だから、学生たちの知りたいことベースで講義をすることにしている。
 これまで受動的に講義をただ単に受け取るスタイルしか経験していないのか、最初の数回は全く質問が出なかった。スライドを出さないとノートも取らない状態だったが、毎回どんな質問にでも真正面から答えるようにしていると、だんだん前のめりで話を聞くようになってきた。今ではノートがビッシリ埋まっている。
 もちろん専門的なことを教えることも出来るし、その準備はたっぷりしている。ただ、総合知をうたっている大学院で、一つの領域だけの話をするよりも、専門同士の横の関係や、それらが生活とどう関わっているのかの縦の関係を伝える方が意義深い。
 こちらが真剣に向き合っていると、学生たちもそれに応じようと真剣になる。大学院だともう教育効果は高くないと思っていたが、信頼関係が構築出来れば、この年齢でもまだまだ伸び代が大きい。面従腹背で信頼しようとしない社会人相手ではこうはいかないだろう。社会の価値観に絡め取られる前に、自分で思考する筋道だけはつけてあげたい。

●6月7日/7th Jun
先日発売になった「美術手帖」に、敬愛する岡山の能勢伊勢雄さんのインタビューが掲載された。記事の中で能勢さんと岡山芸術交流についてのハナムラの発言も取り上げて下さったこともあり、取材されたジャーナリストの鈴木沓子さんから原本を送って頂いた。
 能勢さんの膨大な活動は、とても一つの角度から切り取ることは出来ないが、今回は特集が"日本のストリートとアート"ということで、能勢さんが2005年に企画した展覧会「X-COLOR/グラフィティin Japan」を皮切りに、ストリートとパンクの文脈から見事にまとめられている。
 幼少から今に至るまでの能勢さんの活動の軌跡の一部が紹介されているが、まさに生き方そのものがパンクを体現している。インタビューの中で能勢さんが「教養として文献で学ぶパンクなんてクソくらえ、という話なんですよ」と呟かれた一言がリアルに響く。心よりレスペクト。

●6月8日/8th Jun
 何かを批判するということは容易ではなく、批判する側は次々とやってくる疑問に問われることになる。その疑問を全て想定して、事前にチェックした上でようやく何かを批判できるくらいでないと批判の強度が上がらないように思える。それを意識すると浅薄な批判が出来なくなる。
 その一方で、論理的な批判とは全く違う角度からアプローチするのが直観的な違和感ではないか。論理的な矛盾がなくても感覚的にズレがあれば、何かがおかしい場合が多い。その直観的な感受を難しくしているのが自我なのだが、今の時代はこの違和感の訓練こそ必要に思える。

●6月8日/8th Jun
 本日はMCEIで講演。マーケティング関連の集まりなので「まなざしの革命」の「広告」の章を中心に話をした。社会人への講演は久しぶりで、しかも企業の方々なので、学生相手の時よりも、少々強度を上げて話す。
 初下ろしのスライドがあって時間調整が読めなかったので、いつもの如くマネージャーが各スライドでのラップタイムを記録してくれる。大体3分オーバーくらいで話し切った。話している感覚としては、こちらからは結構的確に伝え切った手応えはある。
 僕の講演はかなり綿密にタイムコントロールしているので、ほとんどアドリブを挟む暇はない。セリフ、テンションや間の調整、声のダイナミズムと手の動きとスライドのモーションを同期させるので、舞台講演に近い感覚が得られるように計算している。zoomの調子が最初悪かったので、今回の出来を後ほど映像でチェックして振り返る必要はあるが。
 今日は企業人相手なので、監視資本主義とデジタル社会主義のヤバさの話をちょっと詳しめに差し込んだ。こちらのパフォーマンスは過去の講演の中でもかなり良かったとは思うし、何も知らない人はかなり面食らったかもしれない。でもあまり中身についての感想が上がってこなかったので、響いたのかどうか。本は凄く売れてたから、それなりに受け取ってもらえたと思うことにする。

●6月9日/9th Jun
 教育新聞でのハナムラの連載「現代アートの見方を知れば世界の見方が変わる」が、6月から紙面掲載の方が開始されたようです。ウェブでは既に3月に公開されていまして、初回だけは無料でどなたでもお読み頂けます。
 紙面の方は各教育機関や小中高の職員室などでご購読されておられれば届いているかと思いますので、ぜひご笑覧頂ければ幸いです。全国の図書館でもおそらくお読み頂けると思います。毎回現代アートの有名な作品を一点取り上げてますが誌面では残念ながら白黒です。全部で13回ありますが作品解説ではなく見方の解説ですのでぜひ。

●6月10日/10th Jun
 今の社会を必死で形作ってきた人々からすると、革命の話など到底受け入れるのが難しいのも無理はないだろう。自分が身を削って必死で実現しようとしてきた理想が、今の歪な現実を生んでしまったとは思いたくはないのだから。
 人は部分的にしか物事が見えない。でも、その時代、その状況の中で、誠実に真面目に人々や次の世代のことを考えて、誰もが必死に頑張ったのだ。そうやって次が時代を準備されるが、そこには常に間違いが伴う。かつての答えがいつまでも正解ではあり続けることはない。
 だからこそ、今何が起こっているのかを知って、耳の痛い話を聞いた時にどういう態度を取るのかが重要だ。自分はもう関係ないからといって無知を決め込むのか。それとも何を間違えたのかを真摯に受け止めて内省するのか。それによって次の生まで変わってしまうのだから。

●6月11日/11th Jun
 もう10年になるが、弟が亡くなった日がまたやってきた。出張中からの帰りの空港で倒れてそのまま亡くなったので、おそらく苦しまずに逝ったであろう。遺体を引き取りにトロントまで飛んだ行きの飛行機のことを今でも鮮明に覚えている。
 父親が亡くなったのは33年前で、その当時の記憶としてはもう随分と風化してしまっている。弟の時はそれを恐れて、全てのプロセスを映像で記録した。芸術などに耽っていた不肖の兄がしてやれることは作品の中に留めることくらいだった。
 亡くなった年に自分のアトリエで上映会をしたが、その後はまともに向き合えずに封印していた。だが10年の節目には再び紐解いてちゃんと記録映像として完成させねばならない。誰が観るわけでもないし、誰に頼まれたわけでもない。
 自分の中に理由はあり、自分のために作る。しかしもし誰かが観ることがあれば、そこにはたった一人の弟を失った兄がとのような想いをするのかという姿が刻まれているはずだ。

●6月13日/13th Jun
 「栗原によれば、かつて「地域」を支えていたのは、「選択できない」ことを受け入れる世界観であり、そうした世界観を、当事者となる人々が了解、共有していたことであった。しかしそれは、今日では逆に「選択できる」ことを自明視するような世界観に置き換えられてしまっている。たとえ、「選択できる」世界観のもとでどれだけ「地域」なるものを復元しようと試みても、人々はかえってその必然性に苦しむことになる。そして経済効果という理由を当てにした、まがい物ばかり生産することになるだろう。結局そこには、根源的な持続性が欠落しているのである。」「自己完結社会の成立」より

●6月14日/14th Jun
 現実がフィクションのようになる時代では、フィクションの中に現実を見出す人が増えていく。だが、そもそも現実とフィクションの境目などそれほど明確ではないのだ。

●6月15日/15th Jun
 以前より名前に関しては自分の中でも懸案事項にはなっていたが、「ハナムラチカヒロ」という名前が、大学で"ペンネーム"として扱われる問題をどうすればいいかを事務方と相談している。
 国籍の問題も含めて複雑な経緯があり、それなりの自分の想いもあって、アイデンティティをかけてカタカナ表記にしている。それをある事務の方から「ペンネームは控えてくれ」と気軽に言われたことに対して少々憤りを覚えている。
 学内で同一人物だと見なされないことが多いので、学内表記が何とかならないかを相談しているが、それでダメなら法的に考えることも検討せねばならない。氏名などそれほど重要ではないかもしれないが、通名や旧姓、芸名や外国籍から帰化した人、性別を変えた人など、様々な人がいるのだ。
 アイデンティティの重要な要素である氏名については、他にも複雑な想いを持っている人も沢山いるだろう。だから氏名権の問題も含めて自分の名前について問題提起するのには良い機会かもしれない。

●6月16日/16th Jun
 原稿を何本も抱えていて、毎日ちょっとずつでも進めるようにしているが、なかなか頭の切り替えが難しい。1日の半分は長老との対談の原稿と向き合い仏教や古代文明などを調べながら文言の整理。もう半分は色彩論と格闘しながら19世紀ヨーロッパの芸術や人智学などを調べる。どちらもすこぶる面白いので手は抜きたくないが、圧倒的に時間が足りない。その裏側ではマネが別の原稿を編集。いつか終わると信じて進む。

●6月17日/17th Jun
無数の命が光をめざして集まってくる 
光にむかってまっすぐにやってくるもの
光の周りをぐるぐるとまわりつづけるもの
光の近くでただじっとしているもの 
それぞれが自らの方法で光にやってくるが 
なぜ自分が光をめざすのかという理由も
その光が一体いかなるものなのかの正体も
だれも知らないままただ群がっている

●6月19日/19th Jun
 3月にスマナサーラ長老と三日間対談させて頂いた原稿を整理しているが内容はすこぶる面白い。ぶっ飛んだ内容も含めて面白すぎて全部は伝えるとまずいと思うくらいだ。その一方で世の中では"対談本"というのは売れないらしい。だが対談本での出版という形が難しいのは非常に勿体ない。
 2020年のコロナの初めに出版した、宗教学者の鎌田東二先生とハナムラの対談本「ヒューマンスケールを超えて」も、実際に買った人は多くはないだろう。読まれた方は知っているが、人間存在から地球や文明の問題、デザインやアート、精神世界や宗教から聖地まで、全方位的に二人で打ち合っている。対話する相手の刺激によってどんどん自分の無意識が引き出されていく。これが対談の醍醐味だろう。
 響く人には響いていて、これまでの僕の本の中で一番面白いという人も居るし、この内容で講演して欲しいという依頼も頂くこともある。しかし「対談本」ということだけで世に拡まらないのは大変残念なことだ。世の中では分かりやすいテーマやメソッドやノウハウの本ばかり注目される。そんな中で長老との対談をどのように届ければいいのか悩む。

●6月20日/20th Jun
 転生の仕組みについての長老との対話の部分は、そのまま二人の会話を起こしても、おそらく何のことかさっぱり伝わらないように思える。お互いが前提としている知識がいくつもあって、それをかなり補足しながらでないと全く理解できないのだが、それをしたとしても伝えられる自信がない。どうしたものか...。

●6月20日/20th Jun
 今年の大学院の特論講義は対機説法の形式でしている。毎回学生たちがハナムラに聞きたいことや話し合いたいテーマを持ち込んで、それに答えていくスタイルでしてきたが、学生たちの1週間の過ごし方が変わってきたようだ。ここでディスカッションしたり質問することを意識しながら、日常の様々なことにまなざしを向けて観察し始めている。
 一人の学生は渋谷区のデザイントイレをフィールドワークしてきて、そこで感じた疑問を出してくれた。そこで、デザインと機能との関係、デザインと運用・メンテナンスのバランス、公共デザインにおける善し悪しの評価、合意形成と政治、ワークショップの功罪、デザインの必然性、デザインの賞味期限、合理的方法と非合理的方法などの論点を返す。
 もう一人の学生はキャッシュレス普及のためのCMについての疑問を出してくれたので、広告と広報の手法の違い、利他行為という強迫、キャッシュレスを普及する理由、ブロックチェーンとCBDCの違い、新札に切り替える理由、次に何がくるのか、などの論点を返す。
 どんなつまらないことでも、自らが疑問に思って考えるところから、変革が始まる。違和感や疑問がないところに変革もないし、ましてや答えもない。だから毎回学生が持ち込んだ視点をかなり膨らませて論点を拡げるが、ノートがビッシリ埋まるくらいメモを取っている。やはり院生くらいになると疑問ベースの対機説法の方が効果が高そうだ。

●6月21日/21st Jun
 デザインをした記念施設の植栽チェックに向かう。竣工して一年の間にほぼ毎月定期的に確認をしているが、樹木はまだ十分ではないが、どこも概ね活着は進んでいる。それよりも下草の多年草に問題箇所がいくつかあるので対策を考える。
 ペニセタムは場所によって活着している所とそうでない所が顕著で、なぜかラインの端っこの生育が良くて中央は少し伸びが悪い。風通しの問題はあるが、日照、水分、土壌などの条件は概ね一緒なので、他の要因があるのではないかと考察。地中の配管か電磁気的な要因の可能性もあるので、少し検討も必要か。
 秋には真っ赤に繁茂していたファイヤーワークスは越冬出来ずに枯れてしまったので、植え替えして今年は寒さ対策を立てる。ロシアンセージとギンギツネは逆に繁茂しすぎていて、少し強めに剪定せねばならない。所々傷んでいるヒューケラは個体差の生育というよりも毛虫の対策が必要かと。
 オタフクナンテン、アルテラナンテラ、ユリオプスデージー、アガパンサス、シロタエギク、ジャノメエリカ、ラベンダー、ツワブキ、カレックスなどは良好に育っている。
 冬場に植え替えたノシランが少々成長が悪いが、それでも徐々に育っているので、やりかえずにこのまま梅雨明けに伸びていくことを期待。張芝は尾根を挟んで活着に差が見られるので、こちらも梅雨後にライナーが伸びていくことを祈る。少し植栽エリアを狭めて風景を締めるために、栗石のラインでエッジをシャープに出すようにお願いする。
 ランドスケープと建築ではデザインのモードが違う。ランドスケープは生き物が中心だからメンテナンスが命だ。一つ一つの様子を見ながら進めていくので時間もかかる。部材を組み立てれば終わりというわけではなく、生きているのですぐには期待通りのものにはならない。だから「つくる」という意識ではなく「そだてる」という意識が必要だ。
 今回は建築やモニュメントのデザインもランドスケープと同じく「そだてる」モードでしている。作った時からどんどん育っていくというコンセプトも含まれている。だから、社員の皆さんがこれこら一緒に時間と手間暇をかけて、その度にどんどん良くなっていくことを期待したい。

●6月23日/23rd Jun
 スマナサーラ長老との対談の二日目は宇宙論からスタートしている。長老は宇宙物理学とかがお好きなので、ダークマターやマルチバースの話などを振っても答えて下さる。すぐその後にペイガニズムや生物学の話にもスッと話題をお互い移行できるので、あちこちに展開し過ぎて大変スリリング。
 でもこうした宇宙の法則と今の社会システム、人間の実存などを包括的に見ることなしに、本当は答えを安易になど出せないはずなのにな。

●6月26日/26th Jun
 S地点周辺の山道の排水の状態を確認しながら、あれこれディスカッション。谷筋に道が造られているので、雨が降ると必然的に道路が川に変わってしまう。表面的に雨が流れていなくても、地下に水が流れている状態なので、道路の初期整備の計画が良くない。大地の再生で何とかなるのかは分からないが、それ以前に整理せねばならないことが多過ぎて、ひとつずつ。

●6月27日/27th Jun
 本日の大学院の講義の前半は、論理的に思考するために、どういうことに注意する必要があるのかというコツを話す。研究するとは一体どういうことで、論文とは一体どういうものか。論文を書く際に陥りがちな罠や論理的矛盾についてもポイントを伝える。
 世間一般の多くの人と大学院でトレーニングを積んだ人との違いは、こうした論理的な思考法を身につけているかどうかだ。世間ではいかに根拠のないことが、さも事実かのように主張されているのかが、こうしたトレーニングを積むことで見えてくる。
 講義を受けているのは理系の学生たちなので、それなりに卒論は論理的に書いてはいるが、理系の学生は逆に哲学や問題設定、問いのチカラが弱い傾向にある。作業に埋没して自ら思考して哲学することなく、その研究領域で既に設定されている問題や課題に自分の研究の根拠を預けてしまいがちだ。
 urban planning(都市計画学)の学生はまだ社会科学とも近い領域だが、sonochemistry (超音波化学)で実験系の研究をしている学生もいる。だから出来るだけ研究全般で汎用性が高いように論理的思考の根本の部分を伝える。ただ一方で、論理的思考だけではうまくいかないので、感覚的思考や身体的思考とのバランスが大事だということもリマインドする。
 後半では、学生の問いに応える形で、労働をめぐる社会の諸問題について話をする。経済的理由を考慮しなければ、人にとって働く理由がどこにあるのか、人に何かを与えることと受け取ることは違うのか、日本や世界では今、労働を巡ってどんな問題が起こっているのか、技術革新は労働をどう変えるのか、我々の豊かさを支える見えない奴隷労働の実態などなど。
 初回の緩い感じと比べて、明らかに学生たちの顔つきが変わってきている。同じように話を聞いているだけだが、聴き方が全く変わっていて、集中して能動的に聞いていることが伝わる。最初に書いてもらったレポートと最後に書いてもらうレポートの差で成長が見えるのは教育の醍醐味。

●6月28日/28th Jun
 昨年から所属する学類の夏のオープンキャンパスのプロデュースを担当している。二日間の皮切りに座談会を設けていて、専門分野の異なる先生方にオープンにディスカッションしてもらう場を設けている。昨年度は、雑草学、都市地理学、人類学、都市防災学の四人の先生にご登壇頂いた。
 今年は、大気環境学、海洋環境学、環境哲学、政治生態学の先生方をキャスティングした。ディシプリンがバラバラなので、ファシリテーションが難しいが、本日の初顔合わせの感触だと何とかまとめれそうな気がする。
 僕自身は他流試合や異種格闘技戦こそが自分を活かせる場だと思っているが、インターディシプリナリーに話す機会というのは、それぞれが同じ学類に所属していてもあまりない。だから先生方はあまり慣れておられないかもしれないが、その間を繋ぐ論点は提示出来ると思う。

●6月29日/29th Jun
 秋から開校する新しいプログラムのためのチラシのデザインを大学事務の方に作ってもらっているが、久しぶりに紙のデザインについて色々とディレクションする。基本的には自由に作成してもらったものにアドバイスする程度だが、それでも楽しんでやってもらえるのが大切かと思う。
 最近は哲学的な考察や社会分析やサイエンス的なことばかりしているのだが、やっぱりデザインの細かい技法についてもまだ教えれることはあるなと改めて。センスの話よりも情報整理と人の視線の構造と意識の誘導、色使いの意味など、頭で理解できる部分を踏まえた上で、イメージやメッセージ、印象というファクターが効いてくる。
 もちろん相手はプロのデザイナーではないし、ソフトもパワーポイントで作成しているので、攻めたものは作れないが、それでも気をつけるべきポイントくらいは伝えられる。こうした技法の話の方が本当は学生にウケるし、ノウハウばかり聞きたがる学生もいるが、一方で果たして大学でメインで教えるような話なのかどうかは考えどころだ。

●6月30日/30th Jun
 スマナサーラ長老との対談原稿の初稿整理をひとまず終える。そのまま全部盛り込むと18万字を超える膨大な量。話の展開も、脱線を繰り返しながら、宇宙の話から神々の話、科学の話から宗教の話、地球環境から社会システム、道徳から教育、輪廻から自己の存在に至るまで、縦横無尽に二人で打ち合っているので、このまま全部は載せれないかもしれない。
 妙に編集して整理するよりも、生のままで全部見せた方がリアルに心に伝わる。だから対談本として出すのが最も臨場感あって、最高に面白いのは分かっている。だが対談本は売れないらしい。出版社も渋るだろうし、3年前に出した対談本のように誰も読んでくれない事態も危惧される。
 それに、どんなに面白いことが話されていても、どんなにヤバいことが書いてあっても、対談本は2回と読み返されないらしい。それはウェブの対談記事でも同じだろう。あちこちから脅されているが、対談本というだけで本当に読まれないのだろうか。その常識を覆したいところだが...。

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