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重なり合う時間たち~ライティング・マラソン#3を振り返って~

3回目のライティング・マラソンを実施した。新しく2名の方が参加してくれて、今回は4名で実施。

参加者の方の感想&当日書いてくれた文章

おもっちさんがしっかりと振り返りを書いてくれていて、びっくりした。お仕事柄かなあ。すごいなあ。

有さんは、当日書いた文章をUPしてくれている。スーパーでのシーンが思い浮かび、思わずくすっと笑ってしまう。

Mさんは、すぐに感想を送ってくれた(noteもぜひ書いてくださいね~!)

自分の書いたものを直後に朗読するというのは不思議な感覚で、音にすることでまた違った感覚を体験できました。

また、他の方の朗読に耳を傾けながら想像することで、それが何かしらの刺激になって、次の文章をより自由に書き進める原動力になったように感じました。

限られた時間で、読み書きを共有する空間が、自分の内部に隠れた何かを引っ張り出す為の強い磁場を形成していたようにも思い、その何かが起こりそうな感じが純粋に面白かったです。


改めて振り返って思うこと

それぞれの方が書いてくれた文章を思い出しつつ、昨日のことを改めて振り返ってみると、4人の個々の時間がそれぞれのペースで流れつつも少しずつ重なり合って、その重なり合ったところが少しずつ交わりあうような、そんな印象の時間だった。

特に、書いたものをその人が読んでいる時間が好きだ。それがなぜなのか、いまだによくわかっていないけれど。

声にその人が乗っかっているからだと思うが、それではすべてを言い表せていない。もっと質感のある何かだ。

なんだろう、読むことによって、文字の連なりに生命を吹き込んでいるように感じるからだろうか。まだよくわからないけど、とにかく好きだ。

たぶん、声優やナレーターなどのプロがまったく同じ文章を読んだら、それはそれですばらしい朗読になるかもしれない。それでも、本人が読むということに、何かがあるはずだ。その辺はもうちょっと探求しようと思う。

それぞれの人の書いた文章は、それぞれに「うまい」なあと思った。それは技巧的な上手さというよりは(もちろんそれも含まれているが)、味わいのある上手さ(旨さ)、といったほうがいいかもしれない。


ライティング・マラソンの最中、内容についてコメントをしないということの影響について改めて考えると、

人の文章に「コメントをしなくては」ということから解放される気楽さ
自分の文章に「コメントをされる」ことによる影響から守られる気楽さ

の両方がある。

「コメントをすること」を考えると、どうしても気負って聞いてしまうし、自分がするコメントについてまた何か思われるかもしれないという二重のプレッシャーがある(朗読を聞いていて何も思い浮かばなかったらどうしようとか、なんかいいことを言わなくちゃとか、なんか変なこと言わないようにしなくちゃとかって考えてしまう)。

「コメントをされること」を考えると、どうしても人から見てどう思われるかを気にしながら書くようになるので、そこにある種の屈折が生じるのではないかと思う。そのことは「自分を切り開く」体験から遠ざかっていくのではないかと(もちろん他者の目を完全にゼロにはできないのだけれど)。

いずれにしても、「自分が本当に書きたいこと」にまっすぐに進むには、コメントをしあうくだりがあると、Too muchなんだと思う。意識が「書くことそのもの」以外のことに割かれてしまうから。

※これは自分の感覚からの分析なので、完全に個人的な解釈です。

もちろん、書いた文章に対して

「コメントをすること」
「コメントをされること」

は大事なことで、それをするには読む力が必要となるし、個々の感性の違いから気づくことも多い。ライティング・マラソンは、それとは違う種類の場というだけだ。


書き終わった後のフリートークはいつも楽しい。他の人がどんな風に「書く」に向き合っているかを聞くことは、ソロキャンパー同士がちょっとだけ一緒に食事をするような空気感がある。

次回以降、フリートークの最初に「今日はどのように書いたか」「書いているときどんなプロセスだったか」を振り返って「自分で語る」ということを取り入れようと思う。おもっちさんが、noteの振り返りで丁寧に書いてくれているようなプロセスを、各自にその場で語ってもらうということだ。

その人がどのようにその文章を書いたかは、外からは分からない。それを聞けるというのは、とってもおもしろいことだと思うし、参考になることも多いはずだ。


次回は、9月12日(土)14:00~17:00です。



当日書いた文章(全文)

以下、私が実際に書いた文章を掲載する。見返すと結構長いなあと思うけど、限られた時間でもこのくらい書けるということだ。ちなみに「 」のなかの言葉は、書く時間の直前に引いたカードのキーワードで、それに関することを書いてもいいし、まったく関係ないものを書いてもいいというもの。

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10分 「ギフト」

先日、インタビューでお話を伺った八十利恵さんが言っていた言葉が印象に残っている。八十さんは子どもの頃からほとんど毎日日記を書き続けているそうだ。そしてその日記を読み返すのがすごく好きなんですよねえ、と言っていた。読み返すことで、頑張っていた当時の自分を愛おしく思えるし、そうでないときも含めて全部自分なんだと思えると。そうやって、自分にさわりながらたしかめていく感じだと言われていた。

それを聞いて驚いた。私は日記を書いたことはあるけれど、ほとんど続いたことがない。しかも、昔の自分の文章は読み返すとその稚拙さが恥ずかしくなるというか、バカっぽく思えてきてしまうのでほとんど読み返さない。

八十さんが言っていたように、過去の自分の行動や選択の結果が今の自分なのだから、過去の自分はその自分を構成している部分として受け入れていくと、それと同じように他者を受け入れる器が広がりそうだ。

そう思い、日々の日記を書こうと思っている。noteで人に見られるものではなく、自分だけが見返す用の日記。毎朝のモーニングページを日記風にしようと思っている。朝、前の日のことを1日分思いかえして書き出す。これは脳トレのため。そして、その日1日にやろうと思うことも書く。これは予言の自己成就のため。書いたら実現しやすいだろうから。そして、いつものモーニングページのように、心の声をだだだだっと。

そして、時間をあけて読み返す。はたして自分を受け入れる幅が広がるだろうか。これも実験だ。


20分 「動き」

始めての人が参加してくれるのは、うれしくて緊張もして、リアルな場となんだかちょっと違う。そんなことを思っていたら、インタビューの申し込みメールが届いた。ちょっと心が動いた。誰だろう?知らないお名前だった。そして、備考欄に「パスワークでいつもお世話になっています」と書かれていた。「あ」と思った。そう、パスワークという魂の成長を促すプログラムを日本で展開している代表の方が、同姓同名の大前みどりさんなのだ。あとで「別人です」と連絡しなくちゃな、と思った。同姓同名の大前みどりさんは、日本トランスパーソナル学会の会員でもあり、その学会の方からも連絡をもらったことがある。「みどりさんの名前をお見かけして……」と。そのときも「いやいや、ちがうんです、同姓同名で……」とお返事をした。

実のところ、私も『防御なき自己』というパスワークの本を読んで内容に興味を持ち、アメリカから講師が来たときにワークショップや個人セッションを受けにいったことがある。だけどそのときもいちいち紛らわしかった。というのはその大前みどりさんが通訳をしていたからだ。大前みどりさんのことを講師は「ミドーリ」と呼ぶし、参加者の人もみんな「みどりさん」と呼ぶ。そのたびにいちいち自分が呼ばれた気になる。実際は私はただの一参加者なので、呼ばれていないのだけど。そのとき自分がどういう名前を使ったかもう忘れてしまったが、なんだかいそがしいなあという気になったことを覚えている。

そう考えると、もっとよくある名前の人はそういうことが日常的に起こっているのかもしれない。それはそれで大変だなあという気がする。

「動き」についてもっと考えてみよう。動きというと、目に見えるものが動いていることだと、とっさに思う。だけど私は内側の動きということにとても興味がある。さっきまで何もなかった心に何かが浮かんでいるとか。じっと黙って考えているのに、頭の中がものすごく動いているとか。クレヨンを持って画用紙の上で手を動かしているうちに何かを描きたくなってくるとか。呼吸法をやっているときに、自分の身体の中が息の出入りにあわせて動いている感じとか。

それは変化ともいうべきものかもしれない。それって仏教の真理そのままだな。諸行無常。諸法無我。ものごとはずっと移り変わっていく。私の心も、ずっと動いている。だから固定の私はいない。ならば、どんなにうれしいときも、どんなに苦しいときも、それは続かないものだと思えば、平らかにいられる。


30分 「深い悲しみ」

気軽に書けるような感じじゃないなあと思った。最近悲しみについて考えたのは、第二次大戦のことだ。NHKの「太陽の子」というドラマのメイキングの中で、被爆したおばあちゃんが語っていた言葉がさっきのカード(ソードの3)のように心に突き刺さっている。

そのおばあちゃんは、爆心地から3キロほど離れた小学校にいたという。ちょうど掃除の時間で、しゃがんで廊下を拭いていたから、直接「ピカドン」の光を浴びなくてすんだため、助かったという。その後いそいで自分の家に戻ろうと歩いていたら、道行く人がみんな、手を前にのばし心臓から上の高さにあげて歩いていたそうだ。心臓より上に手をあげないと手が痛いから、とおばあちゃんは言う。そしてその上げた手からはみんな、やけただれた皮膚がぶらさがっていたという。「ぶらーんとねえ」と。

私はおそらく他の同年代の人よりも戦争の事をあまり知らない。学校で習ったうろおぼえの知識に、いつか見た映画で描かれた内容が、少し加えられた程度にしか知らない。広島にも長崎にも知覧にも行ったことがない。

生まれ育った実家のそばにキャンプドレイクという米軍基地の跡があったが、それは金網の向こうの、木が生い茂った土地でしかなかった。

自分が生まれていない時代だから当然かもしれない。だけど、年を重ねてきて、だんだんとざわざわし始める。同じ日本人としてというよりも、同じ人間として、「知っておく」ことが必要じゃないかと。戦争について、多くの本も映画もドラマも、ドキュメンタリーもある。ただ私は「それ以上知ろうとしない」という選択を続けてきただけだ。だから今年からは、「それ以上知ろうとする」という選択をしようと思っている。

自分が生きている今の時代であっても、阪神淡路大震災も東日本大震災も、その他の大災害や大事件も、巻き込まれた人の悲しみを、私はそんなには知らない。

世界でいまだに行われている紛争や、迫害や、飢餓や差別や、そういう自分で選べない環境によって苦しんでいる人の悲しみも、知らない。

知らなくてはいけない、というわけじゃないかもしれない。ただ、自分が生きている間にちゃんと、そういう人たちが向き合った深い悲しみを、少しでも知っておこうと思っている。何かができるわけじゃない。ただ知るだけ。

それによって私がどうにか変化することを期待しているわけでもなく、何かを訴えるような動きを始めようというわけでもない。ただただ知るだけ。

それでも、自分の心には、何かが湧いてくるはずだ。その湧いてきた何かが、今度は私に次の道を教えてくれるのではないかという気が、少ししている。


15分 「行動」

まさかのおかわり15分。このカードの絵から、あまり「行動」という感じは受けない。描かれている男の人は、「はああ~っ」とため息をついているような顔に見える。

「はたらけど はたらけど猶 わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」という石川啄木の歌を思い出した。

関川夏央さん原作の『坊ちゃんの時代』という漫画に出てくる石川啄木は、それはそれはひどい男で、お金を借りては酒をのみ、また借金をしてはパーッと女遊びをし、奥さんと子供を知り合いの家に預けたままそんなことを繰り返していた。そういうことを知ってこの歌を見ると、意味が違って見えるようになる。

さて、「行動」かあ。今思うのは、豆腐に塩とオリーブオイルを試してみたいということだ。残念ながら、今日買い物にはいったが、豆腐は買っていない。この時間が終わってから買いにいこうかというほどまでではない。

あと5分のアラームが鳴った。
このあと何を「行動」するかを考えよう。

noteをアップする。
シャワーを浴びる。
キッチンに溜まっている洗い物をする。
冷蔵庫の在庫を使ってなにかの料理をつくる。
私は別人の大前みどりですという連絡をする。

これを「行動」と呼ぶのか?「行動」と「行動じゃない」の違いはなにか?

前もこのカードが出て、同じ問いを書いたような気がしてきた。しかも「行動」と「行動じゃない」の違いはなにか?について、終わったあとにGoogleで検索をしたはずだ。が、検索結果を覚えていない。だから今日もまた調べよう。そして「へえ」と思って、また忘れるかもしれないから、それはnoteに書くことにしよう。そうしよう。

追記:
行動
1 あることを目的として、実際に何かをすること。行い。「具体的な行動を起こす」「行動を共にする」「自分で考えて行動する」「行動力」
2 心理学で、外部から観察可能な人間や動物の反応をいう。
「デジタル大辞泉」より


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もう一回お知らせを。
ライティング・マラソン、次回は、9月12日(土)14:00~17:00です。


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