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「書く」をめぐるインタビュー⑨~「言葉が”出た”瞬間の感動を、伝えたいし共有したい」~

「書く」をめぐるインタビューセッションを実施した。今回、お話を聞かせてくれたのは、こころと部屋の専門家 磯ヶ谷ふき子さん

Google検索で偶然このnoteがヒットして、インタビューセッションに興味を持ってくださったとのこと。お話を伺うのを楽しみに当日を迎えた。

インタビューを終えて

「言葉をとても丁寧に扱っている方」という印象を持った。正確にいうと、言葉そのものというよりは、ご自身の中にある感覚やイメージを、どの言葉の器に入れるか、どの言葉で包むかということを、とても丁寧に行っている。言葉を探している間、ものすごく自分の内側を感じていらっしゃることが、Zoomの画面越しにも伝わってきた。その探し方は、普段は光が届かないような深い深い海の底に向かって、サーチライトの光りを投げかけるようだなあと思った。

深海探検のドキュメンタリーなどを見ると、海のなかの神秘性に感動を覚える。ふき子さんが「言葉が”出た”瞬間の感動を、伝えたいし共有したい」とおっしゃるのを聴きながら、そんなドキュメンタリー映像に出てきそうな、深い海底で眠る神秘的な宝箱のイメージが浮かんでいた。人の目に触れることのなかった宝箱が引き上げられて、地上に表れる。そんな風に言葉を出すことができたら、感動的だなと思いながら。


セッション内容のリライト

ご本人の許可を得て、セッションで伺ったお話のメモをリライトしたものを掲載する。このリライトは「記事」ではなく、ご本人に「セッションを振り返ってもらうためのもの」なので、話したままに近い内容になっている。

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自分のなかから言葉が湧いてくるという感覚があって、しゃべるときはその言葉が漂っていく感じなんだけど、それを留めようとすることが自分にとっての書くこと。

ただ、湧いて来る言葉に対して、書くスピードが間に合わない。無理にそれを留めようとして書くペースに合わせると、湧いてくる感じが止まってしまう。なので、いつも書くもどかしさを感じている。

バーッと出てきた言葉を書き留めたものを読み返すと文章的にバラバラなので、校正したり直したりすると、最初に言葉が出てきたときの楽しさが離れていく感じがしてしまい、手を入れれば入れるほどほどつまんなくなってきてしまう。自分自身もつまんなくなるし、文章自体も固くなってくるという体験をよくする。よく、というかほとんどかな。

言葉が湧いてくる感じというのは、基本的に空に放つような、対象はないんだけど言いたくて言っているという感じ。言いたいというより、自分から出したい。それが出てくると、単にうれしいというか、そういう感じ。なんかちょっと大きすぎるひとり言というか。湧いてきた言葉を口に出して言うので、大きすぎるひとり言になる。

その感覚は子どものときからずっとあって、絵を見てそれにお話をくっつけるような、文字のないものに物語をつけるという遊びがすごく好きだった。その自分のつくったストーリーにハマっていくというか。

でも、大人になってからいろいろな機会で文章を書くときは、それとはちょっと違う体験になっている。ふさわしいものを書かなければならないとか、意味のあるものにしなくてはいけないとか、告知のためにメルマガを続けて何通も書くとか、ブランティングを意図してブログを書くとか、そのためにこのキーワードを使おうとかしていると、同じ「文章を書く」ということなんだけども、まったく違うことをしているような感じがしている。


伝えたいことを伝えるということだけでは、人に望まれたものにならないのよねというジレンマがいつもあって、でも、自分の書きたいことってなんなのかというと、そんなに言葉が出てこなくて、そんなに書きたいことなんてないんじゃないのって疑い出しちゃう。

これまで心理学をベースにいろいろやっていて、とはいえ心理学の専門というほどアカデミックじゃなく学位があるわけでもないので、心理学の専門家として何かをしていくのはちょっと弱いと思っている上に、インテリアのコーディネーターとしても、どちらかというと、インテリアのスタイリングという、見た目をよくするとかには詳しいけれど一般的じゃない方面で、工事やリフォームの現場の経験もそんなにないし、図面をひいて設計することにはあまり明るくないので、中途半端だなと思っている。

でも、心と部屋は、私の中ではとても関係があることで、そのことで専門性を発揮していきたいと思っている。

片づけの相談をよく受けるんだけど、部屋がぐちゃぐちゃだから自分の心がぐちゃぐちゃという、そんなに短絡的なことじゃない。「部屋=心」ではなくて、部屋と自分自身の関係性がどうであるかということが大事なこと。

自分は居心地がいいと感じていて、その部屋を好きだと思えるなら関係性がいい。自分の部屋がすごくいやだったり、その部屋を片付けられないことをいやだと思うなら、関係性が悪いということ。

関係性を良くしていくために部屋を変える。居心地をよくして、好きなモノを中心に部屋をつくっていく。そうすることによって部屋と仲良くなることが、イコール自分自身と仲良くなることで、それを伝えたくて講座をやっている。


書くについて考えると、自分を表現することの限界にぶちあたっているという感じ。思ったように表現ができないという、もどかしさ、というか。言葉にならないもどかしさというよりは、同じものを人に見てもらえないもどかしさかな。自分が内面で見えているものを、映像で引き出せれば一発なのかもしれないけれど、言葉にしようとすると何かちょっと足りない。さらに、見えているだけでなく、体感覚的なものもあって、それは伝えることを重ねていかないと伝わらないよね、と思っている。

自分で「書けた」と思うことと、誰かに「伝わった」ことのどこで自分が満足するのかなと考えると、やっぱり言葉を放ったときかな。それが書くこととイコールかどうかわからないけど、自分の内側から外に出したその瞬間だと思う。

まず自分がそれを見て、体験して、その喜びを誰かとシェアしたい。まず自分が見てみたい、読んでみたい、体験してみたいという想いがある。だからやっぱり、自分が書いたものがいいとか悪いとかは別として、書いたものを読んでやっぱり自分が感動する、そうだよねと自画自賛する。そこから、言いたいことはわかるけどこれはちょっと言葉が足りないよねという部分を直していくというか。

一番人に伝えたいものはなにかというと、出てきたもの、内容ではなくて、出てきたその瞬間のよろこび、言葉になるというその瞬間のよろこび、それを、「出たよ!」という感じで言いたい。人が話しているのを聴くのもスキで、それがあってカウンセラーをやっているんだろうけど、「あ、言葉になったね」というときに、そこに居合わせるということが、私にとってのひとつの満足で。「ああ、よかったね、出たね」みたいな。

人の話を聴いていて思うのは、どんな表現であっても、それは美しいよね、その人しか言えない言葉だよねということ。そのひとの内側の世界を見せてもらったなという、そこにすごい感謝がある。おうちによばれたくらいな感じ、おじゃましますという感じで、すごく身近に感じるし、愛すべき存在だなって思う。

そういうふうに思ったときに、自分もその一人だなとようやく自分に返ってくるというか、自分自身もそういうふうに、私にしか発せない言葉を発していて、それは愛すべきことだなと思う。なにをという内容よりも、その瞬間、言葉になったこと自体が、すごいことだなと思う。

自分を表現するということに関して人をサポートしたいと思っていて、そのひとつの形が「部屋づくり」。見た目よく部屋を整えることとは別で、自分のスペース、自分にとって心地よいものを集めたスペースは、その人の表現だと思うので、それが他の人から見てぐちゃぐちゃでも全然よくって、それが表現なんですよと伝えたいし体験してほしい。

どうしても「インテリア」と言うと、見た目を整える方向にいってしまうので、自分が表現したいことと、伝えていることがバラバラな感じがして、自分に対して不誠実さを感じるというのかな、そうじゃないんだよねっていう。


そう考えると、自分はどうやってジャンル分けされるんだろう。私ってアウトローで、どこにもジャンル分けされないなと思えてきて、自分が表現したものを世の中に広めるとか、いろんな人にそのことを伝えるということに、心細い感じがするというか。

どのジャンルにもうまく入りきれない感じというのがあって、ジャンル分けされるように文章を書いていこうとすると、非常に自分がつまんなくなる。それでも、基本的に自分の体験から、自分のジャンルから書いているんだけど、そうやってできた文章と自分自身の間にすきまを感じる。だからほとんど読み返さない。校正はするけど、ひっこめたくなる感じがあって、出したものは出したもの、と置いとかないとしまいたくなる。

書くということ自体はスキで、楽しくて、全然いやじゃないし、いいものを書こうと思わなければ、苦ではない。乗って書けているときは楽しいし、時間を忘れるし。でも、それをあとで何かのために加工しようとすると、しているうちに段々しょぼんとしてくるというか、書くというとそんな体験かなあ。

さっきメモしてもらった中で、「書くというのは、言葉が湧いてくるものを空に放つような感じ」というのは、今もそういう感じがあって、それは楽しいことで、それを留めようとするとつまんなくなるのかな、わかんないけど。

書くこととしゃべることは、私のなかでは同じことで、言葉を見つけてくる、表現するんだけど、それには時差があって、本当は喋る方が先で、それを書いている。だから私の中では、書いているというよりも、しゃべっている。そのしゃべるスピードに書くスピードがあわないので、うまく留められないという感じがある。

しゃべる言葉の表現と、文字の表現が違うので、しゃべったまんまだと文章にならないよね、これじゃ伝わらないよねと思う。

過去に伝わったなあと思ったのは、やっぱりしゃべっているときで、そういうときって自分では何を言ったか覚えてなくて、聞いている人から心を打たれたと感想をもらったり、満足そうな表情をしているのを見てわかるというか。自分で何を言ったか覚えてないくらいのときの方が伝わるなと思っている。そういうときは、自分が空っぽになったなあという爽快な感じもある。

あと、メモを読み返して自分で意外だなと思ったのが、伝えたいことが、言葉そのものではなく、言葉が出た瞬間の喜びだという部分。そうだなって思う。人のことの方がもっとわかりやすくて、その人にしか出せない言葉が出てきた瞬間って、そばにいてそれを体験するとものすごく感動する。

だから、自分がやりたいのは作品をつくることではなく、誰かが表現すること、その人がいいと思うやりたいことを整えるサポートであって、それがインテリアコーディネーターと名乗ることへの違和感となっている。

美しさというのは、一般的には「整っている、洗練されている」という意味でとられるけれども、私はその人独自の「おもしろみ、独自性、世界観」のようなものを美しさととらえている。だから、本当はみんなすごいアーティストなんだよ。常識なんか気にしなくていいよ、と伝えたい。

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いただいた感想

インタビュー終了後、こんな感想をいただいた。

とても不思議な体験でした。
インタビューを受けながら、「書く」という言葉を、自分の中の深い井戸に投げ入れた感じです。
ぽちゃんという音とともに、様々なイメージや感情がわき起こってきました。
それをひたすら言葉にし、聴いてもらい、書き取ってもらう。
それを読んで、また沸き起こってきたものを言葉にする。
ひとりでは引き出せない言葉が、上がってきました。一緒に言葉を引きあげる、共同作業をしてもいました。
言葉にすることで、私にとってなにが一番の喜びなのか、それがはっきりわかったことで、とても満足しています。
インタビューセッションのすべてが、静かにはじまって、静かに終わりました。美しい時間をありがとうございました。

詩的で素敵なコメント、ありがとうございます!


あらためて「書く」をめぐるインタビューについて思うこと

これまでと同じような感想になってしまうかもしれないけれど、その人その人の「書く」を伺っていると、「何を大切にして生きたいか」という話になっていく。

「書く」ということは、伝達や内省の手段だけれど、あらゆるものとのかかわりの可能性を内在していると思わされる。

書くことで自分と対話する。
書くことで自分をたしかにする。
書くことで表現の喜びや楽しさを味わう。
書くことで人に伝える。
書くことで人を勇気づける。
書くことで社会に問う。
書くことで、人類の叡知をリレーしていく。
書くことで……。

「言葉」という道具、「書く」という手段を持って、どう生きていくか。
それを探っていく旅を、私はこのインタビューを通してさせてもらっているのだという気持ちに、改めてなっている。

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「書く」をめぐるインタビューセッションのモニター募集は締め切りました。来年1月から、新料金で再開予定です。

年内に体験したいという方がもしいらっしゃいましたら(セッションの詳細はこちら)、スケジュールがあえば実施可能ですので、こちらのお問い合わせフォームよりお知らせください。




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