見出し画像

映画『罪の声』を観て(ネタバレなし)

昨日投稿した『朝が来る』を観終わって、続けて『罪の声』を観ようと思っていた。空き時間があったので、ゆっくりお昼を食べ、本を読んだり、映画の感想を書いたりして過ごそうと、ステーキハウスに入った。ハンバーグとステーキの盛り合わせプレートを注文し、料理を待っている間noteにアップするための、本やノートの写真をスマホで撮っていた。

ふとスマホカバーのポケットに入れておいたチケットを見ると、14:00と印字してある。スマホの時計も14:00と表示されている。

あれ、もう始まる時間?
1時間タイムワープした?

なんのことはない、上映開始時間を1時間勘違いしていたのだった。私という人間は、こういうわけのわからない勘違いをするから困る。

最初の15分くらいは予告編や鑑賞に際しての注意が流れるから、急いで食べれば本編には間に合うだろうと、出てきたランチプレートを丸飲みするような勢いで食べ、支払いをして、足早にトイレに行き、スクリーンに急いだ。シートに座ったときはすでに本編が始まっていたが、おそらく数分の遅れで済んだと思う。


前置きはこれくらいにして、映画の感想を。
※自分の思ったことの記録なので、ネタバレはしていないと思います。

この『罪の声』は、未解決のまま時効となった「グリコ・森永事件」をモデルに書かれた社会派小説が原作。

事件の脅迫電話に子どもの頃の自分の声が使われた男と、35年を経た現在に事件の記事の担当になった新聞記者の2人が、事件の関係者と思われる人間を訪ね歩き、徐々に真実が明らかになっていく過程を描いたものだ。

本作品を観ようと思ったのは、脚本を担当したのが野木亜紀子さんだったから。野木さんだったら、きっと私のような社会情勢にうとい人間にも、わかるように描いてくれるんではないかという、過去の作品からの信頼や期待感を持っていた。

原作を読んでいないし、子どもだったからというのもあるけど、事件のことはぼんやりとしか記憶していない。

声を脅迫電話に使われた、自分と同年代の子どもたちが存在したということを、これまで考えたこともなかった。そしてそんな子供たちが、突如未来を奪われること、地を這うような人生を送らざるを得なかったこと、小さすぎて自分が犯罪に加担していたことを知らないまま育った可能性もあること、そしてそれを後で知ったときにどんな気持ちになるかなんてことを、想像したこともなかった。

だけど確実に、そういう子どもだった人は存在しているわけで、現実にその声の主の少女に近づくというところまで、分析は進んでいたようだ。


そんな大きくなった子どもの内の1人を演じていた星野源さんの演技は、ものすごく説得力があった。星野さんは、ここぞというときのセリフがどまんなかをついてくるような、緩急のある演技をされる。そのセリフが確実につき刺さって、観ているものを逃がさない。

そして、キツネ目の男役の俳優さんもすごかった。公式サイトには載っていなかったので、最近出ていらしたドラマで調べたところ、水澤紳吾さんという俳優さんで、似顔絵そのまんま!「すごい」と声に出して言いそうになってしまった。


この小説や映画で描かれている事件の真実がたとえフィクションであったとしても、原作の塩田武士さんは神戸新聞社で働いていらしたということもあって、相当真実に近いことも含まれているのではないだろうか。報道のあり方についても作品を通して大きく問題提起をされているし、警察組織などの体制に対しても言わずもがな、だ。

今回この映画を観たことで、本当に自分は、自分が生きている社会のことに、無関心で生きてきたんだなあと思った。いつも傍観者、他人事、対岸の火事。どこか遠くで、テレビの中やネットニュースの記事の中で、起こっていることでしかなかった。だけどそこには確実に、ものすごい数の人生がからんでいるはずだ。

犯罪や事件について語るほどのものが、自分の中に今はまったくない。ただ、何かの事件があったとき、どんな風に事件に関わりうる人がいるのか、多面的にみるきっかけを、この映画によって与えてもらったように思う。

そして、事件というのは突然起こるものではなく、時代や社会のシステムによって生みだされるということも確実にいえると思う。この映画を観たことで、日本の戦後史、特に安保闘争や全共闘などについて、もう少しちゃんと知っておこうと思った。

サポートいただけたら跳ねて喜びます!そしてその分は、喜びの連鎖が続くように他のクリエイターのサポートに使わせていただきます!