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楽しいと悲しい、生きたいと死にたい

私は、病んでいる。病んでいるけれど、あまりそのことを「ふわふわすふれ」としては出さないように、もしくは出しすぎないようにすることを意識してきた。特段、死にたいという気持ちは発信しないようにしてきた。でも、表に出しても良いんじゃないか、それだって大事な自分の側面じゃないだろうか、そう思い始めた。その理由は、この先の話を読んで頂ければ、伝わるんじゃないだろうか。

7月22日に日記を書いた。

どうも物悲しい。物悲しいという言葉が浮かんできたのは、ずいぶん久しぶりのことだと思う。それがぴったりくる言葉だけど、その理由も分からなければ、今抱えて居る物悲しさがどういう内容の悲しさなのかも分からない。

物悲しいの意味を調べてみた。とても悲しいという意味で、日本古来からある言葉らしい。文字として「物悲しい」という言葉を見た。すると、ふと物悲しいという言葉は主客合一だなと思った。物(客観)+悲しい(主観)。だからなのか言い得て妙というか、「物悲しい」以上になんとも言えぬ感情だと思った。

最近、悲しみについて人と話した。私は、酷い悲しみを感じるとき、酷く美しいものを見てきた。ゴッホの絵を見て、これが芸術なのかと雷に撃たれたかのようにショックを受けた時、芸術の真髄を感じた時、酷く苦しかった。そういう話をした。
そして、引き続き自分の悲しみへの想いを語ると、大きく悲しみ喜んできた自分の人生を美しいと思っていた。悲しみの裏に喜びがあり、喜びの裏に悲しみがあると思ってきた(もちろん、ある一定の悲しみにおいてという条件はつくと思うので決して一般化する意図はない)。

悲しみ切ること、退治するのではなくて自分の病に対して同治の姿勢で居ることが、過去の自分自身へ対する優しさだと思ってきた。今の苦しみは過去の私の苦しみや悲しみの証明である。それだけ過去の私は苦しく悲しかった。決して数年で解決する物じゃない、大きな悲しみなんだと今もなお過去の自分が叫び続けて居るように思う。

その一方で、やっぱり今、最近という時期について考えると、今年に入ってから色々とやって居る活動はすごく楽しい。目標や夢がある。美大に受かったらという未来を想像するのも楽しい。未来を思い浮かべてワクワクする。生きていてよかったと心の底から思う。生き延びたいと強く思う。

無名人インタビューというのを最近受けた。そこで何故生きていてよかったと思ったのか、それまでの人生が大変だったのかと聞かれた。内心、7割、YESだった。でも、それを表に出したくなかった。そして、もう反面のYESがあった。それは、今までも楽しいことや幸せは十分にあったということ。だから、後者の回答をした。すると、生きていてよかったという感覚と幸せの違いはありますか?という鋭い質問が飛んできた。

幸せだった時、それは初めての恋人との時間だった。何気ない時間を一緒に彼と過ごす時、私は何者でもなかった。社会人でも、女性でも、日本人でも、帰国子女でも、精神疾患でもなんでもなく、ただ彼と二人、お互いに現前し合い時をすごした。世界で一番安全な場所だった。

今の生きていて良かったという感覚は、今生まれて初めて自分のしたいこと、本当に望んでいた事をしているからそう思えるようになったのだと思う。西田幾多郎もスピノザも自らの必然性に従って居る時が最も自由であると言って居る。それが自己に成るということだと思っていた。数年前に、思想フレンズと呼んでいる友人がいるのだが、その友人に、私は私になりたいと話した。すると、自分になるとは、自分を作るということだよと教えてくれた。今の私は、自分の本来やりたかったことをやって、正に自らの必然性に従い、自己を作って居る最中であり、とても自由を感じて居る。そしてとても楽しい。

だからこそ死にたい気持ちが今強まって居るのも却って自然というか必然なんじゃないかと思ってみたりして居る。どういうことかと云うと、悲しみと楽しみが私の中で表裏一体であるように、今、本当に楽しくて生きたいと願うから、死にたいんじゃないか。善く生きて居るから、善く死にたいと思うんじゃないか。もしくは、今の楽しさ、生きたいという気持ちは過去を通じた必然であり、死にたい気持ちも過去の必然なのではないか。
私は、今、命懸けで、自己のために生き、自己のために死にたいという、そういう気持ちで自分に優しくして居るんじゃないか。私はそんな自分の心の運命を憎む事ができない。愛おしいとすら思う。

社会はネガティブなモノやコト、人を排除しようとする。でも、私にとって悲しみや暗さ、心の闇はすごく大事なものであって、自分らしさと切り離すことはできない。死にたい気持ちも、私の心が求めるもので、悪だとして排除したくない。愛おしい。その想いがより一層強まり、今回は死にたい気持ちについて公表してみようと思った。自分の身の中から湧いてくる必然的な死にたい気持ちを、否定したくない。