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悲鳴の詩

最近フォロワーさんが立て続けに詩の投稿サイトびーれびについてツイートしていたので、久しぶりにのぞいてみた。

いくつか読んだけれど、そういえば人様の詩を読むのも久しぶりだなあと感慨にふけった。あまり好みの詩はなかった。

詩というものは小説と違って、どうしたって自分の魂の一部なりと宿っているのが透けて見えてしまうものだ。小説はその長さによってごまかすことも可能だが、詩はその短さによって端的に表れてしまうものだと思う。同じフィクションを扱っていても、なにをフィクションとして描いたかによって見えてしまうものだ。

そういう意味で、詩はいじましいし、けなげだし、可愛らしいなあと思う。

だからだろうか、詩作品を褒められると、まるで自分の魂が褒められているように、私など勘違いしてしまう。

とはいっても私などは、書いても大抵なにを書いたのか分かってないので、褒められてもとても曖昧模糊とした嬉しさしかないのだが。だから技術を褒められても、実はあまり嬉しくない。といっても読んでもらうためには、技術は必要不可欠なので、なんというか読んでもらえるための前提条件を褒められても、そんな必要最低限の当たり前のことを褒められても…となるのだ。

ただし、前提条件と書いたように、その必要不可欠のものすらないものは、私などお義理で何行か読んですぐに閉じてしまうので、本当に必要最低限の前提条件なのだと思う。

ところがこの前提条件をクリアしていないのに、読まされてしまうものもある。それこそ、作者の魂が露骨に出てしまっていて、しかも切迫した叫びだった場合だ。私はそういう詩が好きだ。変に技術力云々している詩なんかより、よっぽど好きだ。そういう詩を読むと、どうかそのままでいてほしいとすら思ってしまう。

私が詩を書いてきた年数分、どこかで何度も言っていることだが、悲鳴の詩ほど好きなものはない。その悲鳴こそが、詩を書かせた原動力としてもっとも切羽詰まった、書かずにおれなかったという必要さを表しているようで、無条件でひれ伏してしまいそうになる。

悲鳴というのは、一般的にいっても、人間に限らず動物全般の話として、最も耳を傾けてしまうものだとどこかで読んだことがある。そりゃそうだ、命の危険にさらされている生物の声なのだから、否が応でもその悲鳴の主を探してしまう。逆に怖くなりすぎて耳を塞いでしまうこともあろうが、それだけ強力に引き付けられてしまうのだ。

その悲鳴の詩が、冒頭の、訪れたサイトには見受けられなかったので、私はすぐにサイトを閉じてしまったのだが。小手先で書かれた詩は詩と呼べるのかなあなどと思いながら。

とはいってもこれはあくまで私の「好み」の話なので、お花がきれいだなあお空が青いなあという詩が好きな人も世の中にはたくさんいらっしゃるだろうし、うん、ほんと、好きなものを書けばいいんじゃないですかと思う。ただ私が「ポエム」が嫌いだというだけの話なのです。