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日報 9月21日(水)「海をひと掻き」

何事も継続するのが難しい私が、誰からも強制されず、1年間日記を書き続けられたことがありました。今回から日報にタイトルを掲げたのは、その日記の形式を踏襲したためです。
当時は特に意識していませんでしたが、題名をつけることで、その一日が少し特別になるような気がします。

昨日は珍しく、会社の同僚と昼食をとりました。
私よりもいくつか年下で、話し方や所作のすべてに、風を纏っているような軽やかさを持つ人です。
互いの近況を話すうち、彼がこれまで興味を抱かなかった本や映画、アートなど、あらゆる表象文化を貪るように摂取している、ということを知りました。
近ごろ本の虫と化し、丁度現代美術についての本を読み始めたばかりの私は、つい前のめりになりました。わかるわかる、そんな時期がたまにあるんだよね、と。

「何かに没頭しやすい」という共通点が見つかった我々。しかし、インプットの後にはアウトプットに結び付けたい彼と、インプットした対象を思考の中で燻ぶらせている私とは、対称的な存在のように思えました。
好きなこと、知りたいこと…そんなものが見つかったなら、触れられずにはいられない。そうして得られたものを、実際へと還元したいのだと彼は言います。実際、とある本からインスピレーションを得た同僚は、今の職場に身を置きながら、新たな分野で兼業ビジネスを始めるそう。
「だって、動かないと勿体なくないですか?」と彼が笑い、一方の私はそうだよなぁと頷きながらも、自身との性質の違いをはっきりと見せつけられた心地でした。

私がこれまで文化に身を浸し、没頭してきたのは、あくまで受動的な現実逃避の手段だったように思います。
図書館で、美術館で、コンサートホールで、海に体を預けるように、素晴らしい文章や映像、音楽のはざまで揺蕩っていると、いつの間にか心は静謐を取り戻していました。
大それた表現ですが、文化とは私にとって「癒しの装置」そのものでした。

しかし数年前に結婚をしてから、文化へ逃避行する頻度は徐々に減っていきました。
仕事も家事も適度にこなすことが苦手で、要領の悪かった私は、時間の大部分を生活に差し出すほかなかったのです。
時を同じくして、世界をあの疫禍が襲いました。外に出ることを控え続けた結果、私の体はさらに現実に縛られ、関心ごとはすべてが生活に根差したものばかり。そうして思考はゆっくりと柔軟性を失っていき、精神を病み、最後には職を手放すこととなりました。心身の不安定は、今の職を得るまで続きました。

無職期間を経て、少しずつ心身の状態が落ち着いてきたころ、再び懐かしい文化の入り口が顔をのぞかせるようになりました。
すっかり心の機微を失い、表現に飢えていた私は、迷いなくその中へと飛び込みました。
しかしそれは以前のように、受動的な精神安定の装置ではなくなっているような気がしたのです。

A6さんは、何か新しいことやらないんすか。
同僚からの問いに、私は「いやー今すぐには」とはっきりしない答えを返しました。返したけれど、嘘をつきました。
再び文化に首までどっぷりと浸かったとき、ただそこを漂うのではなく、しょぼいひと掻きでも自分の波を立ててみたいと思いました。
私は昨日のことを、早速こうしてnoteの記事としてまとめ、人目に触れる場所に公開しています。紛れもなく、これは私にとって新しい試みです。

結局、同僚にこのことは言えずじまいでした。受け身で飽きっぽい私が、いつまで続けられるかはわかりませんが、浮かんだり藻掻いたりしながら執筆していけたらと思っています。









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