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泣く=悔しいのその先にある感情

ぼくは基本的に泣かない。部活の最後の大会でさえも涙を流すことはなかった。ふと思うことがある。「ぼくはドライな人間なのだろうか」。

ぼくは、試合に負けて泣いているやつの心情がよくわからなかった。「なんで泣いてるの」と聞いたことがある。大概のやつらはみなこう言った。「試合に負けて悔しいから」。

百歩譲って、試合に負けて悔しいということは理解できる。自分、或いはチームの目標として掲げていたものにたどり着けなかった、達成することができなかった。だから、悔しいという感情はまだわかる。でも、泣く必要はあるのか、と思ってしまう。

ぼくは、泣くやつは「自分に甘さがあったから、余力があったから、できることがあったにもかかわらず、それができなかった」とでも思っているのだろうと推測した。でも、負けたという事実に対して、それ以上も以下もない。「全部含めてそれがてめえの実力だろ」と思っていたが、さすがに言わなかった。

なんで泣くのか本当に理解できない。泣けばそれで自分の感情を整理できると思っているのなら、勝負師として、まだまだ甘いなと思ってしまう。ぼくはずっとこう思ってた。「泣くぐらいなら日頃から自分が納得できる努力を積めよ、一日一分一秒を大切に使えよ、後に後悔することのないように日々を生きろよ」って。

毎日の練習で自分で自分を追い込むことのできない人間は、本番の舞台でも緊張に勝てず飲みこまれてしまう。本番で緊張しないという人もいるのかもしれないが、基本、みんな緊張するものだ。でも強い人は、緊張感すらも上手く整理し、自分の力へと変えることができる。「緊張して本来の実力を出せませんでした」とか平気で言ってるやつの気心が知れない。お前は何にもわかってないんだな、自分すら制御できないんだなって思ってしまう。



ぼくは、小学3年から高校3年まで剣道をしていた。小学生の間は「楽しむ」ということに重点的だった。試合でも勝ったり負けたりで、「勝つ」ということにはあまり興味も意識もなかった。剣道に対しては、途中からやらされているような気分になってきはじめていた。

「勝つ」ということに意識するようになったのは中学生になってからだった。当時の顧問がぼくらにこう言った。「やらされているという受動的な姿勢では楽しくないし、自分のためにならない。やるなら、自分からという能動的な姿勢でやりなさい。そうすれば自分が何をすべきか、どうすればいいのか、道が自ずと見えてくる」。この時から、ぼくの剣道に対する姿勢がガラッと変わった。

中学・高校時代のぼくは、せっかく剣道をするなら、「試合に勝ちたい、強くなりたい」と思った。そのために、練習では手を抜かず極限まで自分を追い込む、常に試合を想定する、アドバイスを自分なりに咀嚼して考えを整理する、足りない部分を自主練で補うなど、自分にできることは何でもした。いろんな積み重ねをして、相手に合わせて対策を練ることより、自分のペースで自分に相手を合わせさせるという意識で戦った。地道な努力が実を結んだのかもしれないが、たくさんの大会で優秀な成績を収めることができた。負けた時は死力を尽くしたうえで「ここが足りなかったんだな、だからしょうがないよな」と思うことができたので、悔しがること、泣くことは全くなかった。

だからこそ、負けた時に泣くやつに対しては、「負けたとしてもそれを受け入れられるような努力を積むこともできなかった弱い人なんだな」と思ってしまった。負けた時に泣くやつは、勝った時に喜ぶようなやつばかりだと思う。一回の勝ち負けで心が動く程度の人間だから。自分に対しても相手に対しても甘いのだろうなって。「あなたには、今までにもっとできることがあったでしょ、でもしてこなかったのはあなた自身なんだよ、それなのに受け入れることもできないんだ、その程度だからそのレベルなんじゃないの」って思っていた。

このような文章を書いているぼくだが、泣かないということはない。先輩たちの最後の試合で団体戦で負けてしまったときに泣いてしまったことがある。中学・高校で一回ずつ。理由は、目標に届かず、先輩たちの剣道人生をこの試合で終わらせてしまった、そのことへの責任感に耐えられなかったから。自分の負けが先輩たちの目標を叶えさせることを邪魔してしまった。その時だけはずっと泣いていた記憶がある。それ以外に泣いたことはない。この涙は悔しいという涙ではなく、申し訳ないという責任感からくる涙だったと自分では理解している。



高2夏から高3にかけての部活は本当に生き地獄だった。表向きはみんなと楽しそうにやっているように装っていたが、全く楽しくなかった。

平日はきつい練習をただ時が過ぎるのを待っているような感じでみんなはやっていた。ぼくは手を抜かず、ずっと真剣に取り組んでいたのに。特に土日の練習は最悪だった。朝8時からスタートで7時過ぎからみんなは武道館に来ていた。ぼくは部員の中で学校から一番遠いので最後に着くのだが、武道館に行くと、みんなぐったりとして寝ていたり、どんよりとしている。ぼくが主将として声をかけても特に反応はない。

8時になるにつれて徐々にみんな準備を始めるものの、動きはだらだら。8時から準備体操が始まって号令をかけるも、みんな声が小さい。ぼくひとりの声より7人以上いる部員の声が小さい、しかもやる気が感じられない。こんなことありえていいはずがない。

そうしているうちに、顧問が来る。顧問が来たら、みんな怒られたくないから先ほどとは比べ物にならないぐらいの大きな声と真面目な態度でやりだす。つい5分前の素振りでは、手を抜きまくってたくせに。

そして、まあしんどい練習が12時半ぐらいまで、ひどいときには13時前まであった。顧問は「12時までには終わる」といつも言っていたが、何かしらの予定がない限り終わったことはなかった。

こうして、疲れすぎてもう体を動かすことができない、JRで家まで帰ることも一苦労だってなってるときに、「昼飯食べに行こうよ」「ゲーセン行こうぜ」と朝武道館でどんよりしていたやつらに声を掛けられる。ぼくは思ってしまった。「練習に死ぬ気で取り組んでないからこんなに元気があるんだろうな」って。ぼくは滅多に一緒に昼飯に行くことはなかった。

顧問は顧問で、長時間練習しないと強くなれないと考えているような感じだし、ぼくの効率的な練習、短期集中型の練習の提案は却下された。なんだよ、その古い考え方、馬鹿じゃねえのってずっと思ってた。

そして、それぞれの個性を伸ばそうとする指導はあまりなかった。筋肉質な顧問の体の動かし方を指導されても。こっちは筋肉質な体の動かし方、戦い方は合ってないのよ。もっと一人一人のいいところを伸ばそうとは思わないのか。そもそも馬鹿みたいに筋肉をつけた武士がいたかって話だ。剣道は足さばき、体さばき、竹刀さばきが大事だとぼくは思っている。力ずくで相手を崩す戦い方なんていらない。そんな戦い方じゃ、武士の時代じゃとっくに相手に切られてるわ。よくわかってないなあと生意気にも思っていた。

副顧問も副顧問だ。指導してくれるのは有り難いが、説明が長すぎ。おまけに過去の自分のエピソードを話してくるな。今の説明に必要ないだろが。そして指導するときの声小さすぎ。ただでさえ面付けてて何言ってるか聞き取りづらいのにさ。そこらへんも自分を客観視できてないのかよなどと思っていた。

このように自然と心の距離ができている部員たちと団体戦で勝とうなんて話をするのは本当にしんどかった。前の四人がぼくまで粘って繋いで大将のぼくで勝負というのがこのチームの戦い方だと、筋肉質な顧問が言う。大将まで粘って大将で勝負、これがこの学校の戦い方だと。なんだよそれ。五人の団体戦の勝敗を俺一人に回すなよ。結局、前の四人は負けないように負けないようにと戦う。

ぼくの経験上、負けないようにと戦うやつは負ける確率が高い。なぜなら受け身に回っているから。相手に勝つようにという攻めの姿勢がだいぶそがれる。そうなると相手に攻められて、自分の戦い方ができずに負ける。

弱い奴ほど、何かを守ろうとする。何かって何なのかは僕にはよくわからない。プライドとかなのか?でもそうやって守ろうとしているものって、大したものじゃない。何かを捨てきれない覚悟のない人間が、どうやって捨て身の攻めができるか。できるわけない。結局そういう人間は負けてしまう。

なのに、負けたら泣く。ぼくは、どうしても泣く理由がわからない。試合に負けて悔しいから?あんだけ手を抜いてたくせに、努力を積み重ねられるときに積み重ねてこなかったくせに。悔しい?呆れて笑えてちゃうこともあった。

ぼくはたぶんこの先、高校で一緒だった剣道部の奴らとはもう会わないだろう。会いたくないとまでは思わないが、自分から会いに行くようなことは絶対にない。そう思えるほどの地獄の日々だった。ぼくがもっと意見をぶつけ合えればよかったのかもしれない。いや、それでも分かり合えなかったと思う。根本的に剣道への考え方、向き合い方が違ったのだから。楽しいふりをするのがこんなにもつらいとは思ってもいなかった。

中学の剣道部は高校の剣道部とは真逆だった。みんなで勝ちに行く。みんなで戦う。練習がきつくても手を抜かない。そういうやつらが集まっていた。だから、皆強かった。高校時代との対比みたいだった。中学の剣道部のみんなは負けても、泣くようなやつはいなかった。みんな、能動的な姿勢で自分で何をすべきかを考えることができ、実際に取り組んでいた。そりゃ負けたとしても、すっと折り合いをつけることができたんだろうと思う。


ぼくは、人間としてドライなのかもしれない。泣いてるやつを見ても同情しないし、ぼく自身泣かない。でもそれは、泣くという感情に達する前に、自分にできることをすべてやっているから、負けたとしても悔しくても泣くまでには至らないんだろう。女子の後輩に、「先輩だけ泣いてないんですけど、最後負けて悔しくないんですか」と言われたことがある。悔しくないということも半分あっているから「そうだよ」といった。すると女子の後輩から「先輩はドライな人間ですね」と言われた。

確かにドライではあるかもしれない。でも、その女子の後輩に言った。「本気で努力を重ねてきたから、最後負けたけど心のどこかで納得してるんだ。ここまで勝つことができたことに。今までの努力が少しでも実を結んだことに」って。

どこか周りのみんなと比べると達観していたのかもしれない。みんな泣いてるのにお前は悔しくないのかと冷たい目をされた。でも、ぼくは最初から「最後に泣くぐらいなら、その過程で泣けばいい」とわかっていた。練習中に、できない自分が不甲斐なくて、全然ダメな自分が悔しくて、みんなが見えないところで泣いていた。ぼくだって、泣く。でも最後に泣いて終わるよりは笑って終わりたかったから。

ゴールを見据えるとその過程で何をすればいいのか自ずとわかる。過程で失敗して、心が折れて、悔しくて泣くこともある。それでもいい。いつかゴールにたどり着いたときに、ふと振り返ると、努力の道が見えると、たとえどんな結果であっても、受け入れることができるはずだ。その繰り返しで人生は豊かになっていく。人間もいつかは死ぬ。「死」というゴールで振り返ったときに、泣くようなことがないように。一日一分一秒を大切にね。

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