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武道や手技療法の探求に学問としてのアプローチが必要である理由①

この記事をお読みいただきありがとうございます。

整体師(身体均整師)で古流剣術師範の深谷俊文(ふかやとしふみ)です。
私がどういう人間なのかは前回の記事に書きましたが、アバウトにいうと下記の通りです。

  • 福岡出身。空手と剣術にハマり身体追求した十代~二十代を過ごし、

  • 大学院修了後上京し、フリーランスとして働きながら剣術支部を運営。

  • 28歳のときに免許皆伝師範となり正式に師範として活動。

  • 人間の体についてもっと知りたくなり、身体均整法を学ぶ。

  • 2022年の年末に、偶然ネットで荒川区の元空手道場が賃貸物件として出されていることを見つけ、

  • 見切り発車で契約し、整体を開業。運営中。32歳。

2023年7月現在、整体院をはじめて半年が過ぎ、整体院運営にも剣術修行&指導にも孤軍奮闘しています。

前回の記事では、私が武道の世界での身体の探求への面白さから、身体均整法を学び、偶然の出会いから整体院の運営を始めたこと。そして、整体の施術×武道という自分のテーマを人に伝えるためには、ちゃんと発信しなければならないと思い、noteをはじめたことを書きました。

この記事では、私のもう一つの軸といえる学問の立場について書きます。


私の学問遍歴

学問に関心を持ってきたこれまでの人生

そもそも私は、学校教育の過程でははみ出者でした。
小学生のころから、学校の管理的な環境がなじめなかったですし、何の意味があるのかもわからない勉強を押し付けられることも嫌いでした。そのため、空手にハマっていた高校のころは半年で高校を中退したほどです。

しかし、空手でもっと強くなるにはどうしたらいいのか知るためには、勉強も必要でした。そこでとにかくたくさん読書するようになり、学問への興味が芽生え、高認(大検)を取得し、大学進学しました。

それと並行して、どうやら古武道の世界には昔の武術の伝統を伝える特別な技があるらしい、と思うようになり、古流剣術である二天一流の門を叩きました。

大学時代は二天一流の鍛練に明け暮れましたが、私が入会した玄信会という派では、武道を学問的に取り組もうという独自の方針が明確にありました。

南郷継正先生という武道理論の創始者の方が書いた著作を教科書・参考書として学び、1年のうち半年は稽古の後に1時間の学習会が行われていました。
「武道と学問に何の関係があるの?」と思われるかもしれませんが、これは実は大きく関係するのです。さらにいえば、整体の施術にも学問が重要であると考えています。

ともかく、武道を通じて学問の世界の深さを知り、一時期は学者を目指しました。

九州大学の大学院に進学し、国際政治学(規範論)で研究しましたが、現在の文系若手研究者はなかなか厳しい状況に置かれていること、現在の学問の世界では私のやりたいような学問の取り組み方は難しそうであることがわかり、学者への道はあきらめました。

何より、仕事にはならない武道を頑張りながら、不安定な研究職に就くことは、人生が不安定になりすぎると思いました。

そのため、普通の仕事をしながら武道を中心に生きていこうと考えての現在です。

しかし、学問的な取り組みをまったく捨て去ったわけではありません。むしろ、自分で事業をしたり、古武道という伝統を継承するという研究ではなく実践中心の生活になったからこそ、学問的な取り組みが重要になると考えています。

わざわざこんなことを書く理由

これから、私の学問的な立場について書いていきますが、わざわざnoteでこのようなことを書くのは「こういうことを先に整理して書かいておかないと、そこから先のことがどうしても書けない」と感じたからです。

もっと一般的な、理解されやすいことから発信しようと思いましたが、私にとって土台となっている学問の部分を書かなければ、そこから先のことが書けませんでした。

私は、自分が行っている事業のことも、剣術のことも、大きく社会の中、時代の流れに位置付けないと気が済みません。私がそういう勉強をしてきたため、そういう頭の働きになってしまったのだと思います。

そのため、ここでも大きな枠組みから書いて自分の取り組みを位置付けるために、土台である学問のことから書きます。

武道と学問の関係

学問とは

そもそも「学問」とは何でしょうか。それは、特定の対象を論理の体系として観念(人間の頭脳の活動=認識)の世界に構築したものである、というのが私の立場です。

さまざまな議論の前提をすっとばしていえば、学問とは人間の頭脳の働き(認識)の活動によるものです。

文明を築いてきた人類のあらゆる行為、生産活動も、芸術も、研究開発も、私たちの日常的な仕事も、すべて認識によるものであり、認識による働きかけによって外界に何らかの影響を与えるものであり、これを哲学的な言葉で労働といいます。

学問は、その認識による活動(つまりアタマを使ったあらゆる活動)の一つですが、特に論理を駆使して対象の性質を体系化するという点で、他のあらゆる行為と異なるものです。

そして、さまざまな研究、工夫、仕事、などの成果(真理、法則、上達法、開発法、ノウハウ etc)を他人や後世に正しく伝えていくためには、論理化・学問化する必要があります。なぜなら、生まれた成果(真理、法則、上達法、開発法、ノウハウ etc)そのものは、その時点では個人の認識の中にしか存在しないものだからです。

その個人の認識の中にしか存在しない成果を、他人に伝えるには何らかの形で表現する必要があります。そして、専門的な世界で生まれた成果を正しく他人に伝える手段として、最も一般的なのが論文です。

論文とは、さまざまな実践(研究など)によって生まれた成果を、正しく他人に伝えるために論理的に述べた文章(や図、数式、データ、なども含む)です。学会で発表したりしていなくても、このような目的で、正しく論理的に述べられた文章は論文といっていいと思います。

このように、人間は個人の成果として生み出したものを、他人に正しく伝えるためには、論理化して表現するという手段を取らざるを得ません。

ここでは、わかりやすくするために論文のことを先に述べましたが、私がいいたいのは、人間の認識の世界に生み出されたものは、論理化し、論理的な表現を用いて他人に伝えられなければならない。そうしないと、正しく後世に伝えていくことができない、ということです。

論理という方法を使わなければ、あらゆる表現は「その人なりの表現」になり、受け取る側も「その人なりの受け取り方」をしてしまいます。そうなれば伝言ゲームであり、正しく内容が伝えられません。もちろん、たとえ論理的に表現しても100%正確に伝えることは難しいでしょう。

しかし、それでも他の表現方法に比べれば、論理的な表現の方が正しく伝えられる可能性が高いといえます。だからこそ、あらゆる学問分野で論文という表現が採用(というか創造、発展)されてきたのでしょう。

そして、論文という形でアウトプットすることも含めて、特定のテーマについて論理の筋を通し、対象の構造にわけいって論理の構造も明らかにし、、、という繰り返しによって論理の体系を構築することが学問にすることである、というのが私の現時点での理解です。

武道を正しく伝えるために学問的な取り組みが必要

そして、武道を後世に正しく伝えるためには、やはり自分たちの流派がどういう流派で、何を本質とし、どういう技を用いて、どういう稽古法を用いて、どういう目的を持ち、何を意義として活動していくのか、といったことをやはり論理的に表現できなければなりません。

「なぜ論理的である必要があるのか。普通の言葉で表現すればいいのではないか。」という考えもあると思います。しかし、やはり私は論理化する取り組み、論理による表現が必要であると考えます。

それは、武道というものが、数百年前の日本社会という特殊な社会環境から創造されてきたものだからです。

現代とはまったく異なり、医療技術も十分ではなく、肉体(と武器)を用いて戦わなければならなかった、その中で生き延びなければならなかった武士たちが生み出した文化が、現代も続く武道の元にあります。

そのような社会環境は、現代を生きる私たちにとってはあまりにも特殊です。

しかし、そのような特殊な環境があったからこそ、必死に技が磨かれ、間違った動きや技は徹底的に淘汰され、質の高い技・動きが創られていったのだと思います。また、精神面でも真剣勝負でもブレない不動心が追求されたのでしょう。

そして、一部の武士は、その洗練された精神から他の芸も磨き、書や絵、彫刻などの芸術作品も残していますし『五輪書』のような優れた書物も残されています。

このように、特殊な環境があったからこそ生み出された文化であるため、現代人が、現代人の立場から、現代人の勝手な解釈で受け継ごうとすると、間違ったものになってしまいます。

そのため、論理の力を借りてその成果をすくいとり、そうして論理化、学問化した成果を、さらに後世に正しく伝えるために、やはり論理的な表現が必要になるということです。

論理的な表現では、誰でも同じ結論に至れる

「なぜ論理的な表現でなければだめなのか」については、一般的な論理の本、論文の書き方本などを読めばわかると思いますが、端的にいえば、論理的な手順を踏めば誰でも同じ結論に至ることができるからです。

論理的な表現とは、その人の観念(認識、アタマの中)の中で、その対象のテーマについてどのように筋道が通されて、どういう手順を経て、どういう結論に至ったのか、クリアに表現したものです。

そのため、誰でも同じように筋道をたどれば同じ結論に至れるはずです。逆に、論理の筋道のどこかに間違いがあれば、それが間違っていることも明らかにできます。

論理的ではない、自分勝手な表現であれば「あれはそういう意味ではない」と何でもありの解釈、言い訳が可能になり何でもありになってしまいます。
そのため、少なくとも時代を超えて、さまざまな人に正しく理解してもらいたければ、論理的な表現にこだわる必要があると考えています。

話を戻して、私の場合は学問(論理)の力を借りて武道を正しく伝えていくことが大事だと考えているわけですが、そうなると「現代人は刀で戦ったりしないのだから、昔のまま受け継がなくてもいいのではないか。現代人にとって実用的な部分だけ受け継げばいいのではないか。」という考えも出てくるかもしれません。これは、あらゆる伝統文化に共通する問いだろうと思います。

しかし、私はやはり、少なくとも武道については、昔のものをできるだけありのまま受け継ぐことが大事だと考えます。

長くなったため、次の記事に続きます。

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