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【Voice!】第5回 FW27 押谷祐樹選手 前編

J通算327試合出場76得点。J2で歴代17位の67得点を記録したFW。

輝かしいキャリアを持つ選手が、昨シーズン藤枝より完全移籍加入。

今シーズンは、本職のシャドーストライカーのポジションで躍動。

リーグ開幕戦から3試合連続で、貴重な先制点を叩き込んでいる。

福井U攻撃の要”オシ”の原点からキャリア分岐点まで、話を聞いた。

プロフィール
押谷祐樹(おしたに ゆうき)選手
1989年9月23日生まれ 静岡県浜松市出身
2023シーズンに藤枝より完全移籍加入した経験豊富なFW。
選手歴:ジュビロ磐田ユース→ジュビロ磐田→FC岐阜(期限付き)→ファジアーノ岡山(期限付き)→ファジアーノ岡山→名古屋グランパス→徳島ヴォルティス→藤枝MYFC

ー 出身地と家族構成について教えてください
出身は、静岡県浜松市です。両親と5歳下の弟の4人家族です。弟とは大人になった今でもめちゃくちゃ仲が良いです。2人だけで出かけたりしますし、全然どこでもいけます。

ー サッカーを始めたきっかけは?
幼稚園の頃にJリーグが発足して、サッカーが近くにある存在になって、ボールを蹴り始めたのが多分最初だと思います。少年団が小学2年生からだったので、そこから本格的に始めました。

ー それは地元の浜松で?
はい、少年団の与進AFCに入りました。

ー そこからヤマハジュビロSS浜北に。磐田のアカデミーに入るきっかけは?
その少年団の友達と5、6人で入団テストを受けに行きました。俺は行きたいとか全然なかったんですけど、親同士で受けさせようという話になっていて、それで受けに行ったら僕だけ最終選考に受かっちゃって。「あー、みんなと離ればなれだな」と思っていました。

ー 積極的ではなかったんですね
小学校の頃は選抜チームには入ってなかったんです。当時の少年団の監督は「そういうとこに行くと怪我するから行かせない」みたいなのもあったんですけど。
僕は普通の中学でサッカーをするつもりでした。

ーヤマハジュビロSS浜北は、家から近かった?
いや、結構遠かったです。いろんなところに練習場があったんですけど、浜北はもうだいぶ浜松の北、山の方でした。自転車で駅まで行って、電車に20分乗って、降りてからは歩いてとか。浜松市内で練習してるときもありましたし、逆に浜松の海の方に行って砂浜を走ったりとかもしました。平日も週 2、3回は練習があったので、親に送ってもらったりすることもありました。

ー 最初からポジションはFW?
小学生のときは中盤の真ん中、センターハーフみたいなところをやっていましたが、中学生のときは基本FWをやってました。

ー いつ頃から「プロ」を意識していましたか?
高校1年生のときは、練習についてくだけで精一杯だったんです。試合にはちょくちょく出してもらってましたけど、自分がプロになるっていうのはそのときは全然考えられなかったですね。中学3年生の終わりにユースの練習に行きました。当時はユースから6人もトップ昇格した年で、高円宮杯では準優勝でした。その決勝戦を見に行ったときは「俺は3年後にこれになれんのか」と思って、少し怖かったです。やっぱりレベルが高すぎて、正直この中で練習したくないなとか思いましたもん(笑)。
その代は岡本達也くん、上田康太くん、八田直樹くん、中村豪くん、藤井貴くん、森下俊くんらがいて、めっちゃレベル高かった。これまでで1番ジュビロでトップ昇格した代(2004年)なので衝撃を受けましたね。

※2004年度の成績(ジュビロ磐田ユース)
プリンスリーグ東海優勝、クラブユース選手権準優勝、高円宮杯準優勝、Jユースベスト8

ー では、高1では「プロ」を意識していなかった?
そうですね。だから高校2年生になって、しっかりスタメンで試合に出るようになって、 サテライトリーグでもプロの選手と一緒に試合をしたりしてから、少し意識していました。高校3年生のときは何試合連続ハットトリックとか、同世代ではあんまり取られないような、止められないような感じになってきたときに「トップに上がれるかな」とはちょっと思いましたね。

※2007年はプリンスリーグ東海で得点王。17得点は当時の史上最多得点

ー トップ昇格の通達はいつ?
高3の夏ぐらいですね。クラブユースの大会前ぐらいだったかな。

ー 当時の気持ちを教えてください
どうだろうな。プロの世界でやれるっていう喜びはありましたけど、大学にも行きたいなって気持ちも少しありました。でも「これだけ得点を取ってて自分がトップに上がれなかったら、誰が上がれるんだよ」って思っている部分もあったんで、 上がれるだろうとは思ってました。

ー ユース時代といえば「U-18SBSカップ国際ユース大会」で優勝しました
でも静岡県選抜で出てるんです。前の年も僕は静岡県選抜で選んでもらっていて、2年連続で出場しました。高校2年生のときは、ボコボコにやられたんですよ。日本代表が 2個上のU-19だったんで、槙野智章(元日本代表)さんらの ”調子乗り世代” で、槙野さんに思いっきりモモカン食らわされてめちゃくちゃ痛かったです(笑)。
次の年は同い年だったんですけど、ジュビロユースから3人ぐらいU-18の代表に行って、俺はキーパーの子と2人で県選抜に選ばれました。2人で「絶対倒してやろうぜ」みたいな感じで話していたのを覚えています。静岡県選抜の他のメンバーもU-18の候補には選ばれた子が多くて、結構レベル高かった。 そのなかで静岡県選抜メンバーが3連勝して、みんなでヨッシャーって喜んでましたね。

ー ニュースにもなっていましたね
もう何十年、20年ぶりだとか、なんかそんな感じ。俺らの年代は国体がU-18から、U-16になるちょうど切り替わりのときでした。だから、SBSカップしかなかったんです。こんな俺ら強いなら国体もやらしてくれよ、みたいな感じでしたね。

ー 当時、杉本拓也選手も県選抜メンバーでした
そのときにスギと知り合いました。対戦相手として存在は知っていたんですけど、一緒にやったのはそこが初めてだと思います。

2007年U-18SBSカップ国際ユース大会で、1985年大会以来22年ぶり2度目の優勝を果たした
静岡県選抜メンバー/押谷選手は後列左から2番目、杉本選手は後列右端

ーその後、プロになってJリーグ327試合出場76得点。2022シーズンには月間ベストゴールも受賞されています。自分が選ぶ記憶に残るゴールは?
どうだろうな。でも、J初ゴールを決めた試合とかは結構印象に残っています。ジュビロで全然出れなくて レンタルで岐阜に移籍して。当時の岐阜の強化部長が服部さん(現福井U社長)でした。移籍して2試合目で、コーナーで相手がそらしたみたいになったのをボレーで決めたんですけど、 初ゴールの時はやっぱりめっちゃ嬉しかった記憶がありますね。ジュビロでは全然試合に出れなかったので。
でも、そのときはJ2もまだ注目もされていなかったし、僕も岐阜にJ2のクラブがあったことすら知りませんでした。岐阜に移籍が決まってから所属選手を調べても知ってる選手は 1人も居なかった。ジュビロからもう1人同じ年のやつが一緒に移籍しました。彼しか同年代は知らないから「いきなりって気まずいなー」とか思いながらチームに合流したなかで、ゴールを決めれたので嬉しかったです。 もう16年も前なのによく覚えています。

◇ 個人成績
Jリーグ初出場/2009年7月12日 J2 第27節 愛媛FC戦(長良川)
Jリーグ初得点/2009年7月19日 J2 第28節 横浜FC戦(長良川)

ー2016シーズン、岡山でのプレーオフのゴールも印象に残っています
岡山でのJ1昇格プレーオフ準決勝の松本山雅戦のゴールは長男が生まれて最初の試合だったので、めちゃくちゃ嬉しかった記憶があります。試合はその後同点にされましたけど、後半ATに赤嶺選手の劇的ゴールで勝利しました。勝って泣いたのは初めての経験でしたね。
ただ、その日がめちゃくちゃ寒くて、サポーター席からは熱気で湯気が出るくらいでした。試合の2日後にめっちゃ高熱が出て、インフルエンザにかかったので決勝のC大阪戦に出れなくて。なんとか試合に出られないかって頑張ったんですけど「無理です」ってドクターに言われて悔しい思いをしました。決勝戦の当日は隔離が解除されたので、チームに帯同して会場で試合を見ていました。試合後の帰りにサービスエリアでカレー食ってたら「あいつなんでカレー食える元気あんだ」って怒られて。俺だって試合に出たいけど出られなかっただけなのにと思いながらね食べてましたね。
次のシーズンはJ2に降格した名古屋に移籍することになって、同じカテゴリーでの移籍だったのでそこでもサポーターの方には色々と言われましたね(苦笑)。

ー 岡山では今でもクラブ史上最多得点(43得点)の記録が残っていますね
いまのところ、まだ抜かれれてないので、1位ですね。最近だとみんな20点ぐらいとったら移籍しちゃう人が多くて。

ー名古屋では元日本代表の佐藤寿人さんと一緒にプレーされました
寿人さんは今でもたまに連絡しますよ。寿人さんの存在も、名古屋に移籍する1つの決め手でした。名古屋からオファーをもらったときに、寿人さんはもう加入が決まっていて。俺はシャドーだったのでポジションは少し違いますけど、同じぐらいの身長であれだけ得点を取れるっていうのはやっぱり凄いですし、見本にするプレーとかもいっぱいありました。すごい好きな選手だったので、寿人さんとプレーできるなら行きたいなって思っていました。

ー 名古屋時代のプロフィールに「憧れの選手=佐藤寿人選手」と書かれてましたね
そうですね。岡山のときには広島の練習試合に行ってどうにかユニフォームを貰えないかと思っていました。当時の岡山のキーパーが元広島の人だったので、「ちょっと寿人さんと繋いでください、ユニフォームください」ってお願いしていたら、寿人さんが持ってきてくれて本当に貰えたんですよ。嬉しくてずっと家に飾っていました。そのぐらい好きだったんで、名古屋で一緒にプレーできるチャンスはどうしても逃したくないなって思い、移籍を決断しました。

名古屋時代に憧れの佐藤寿人さんとプレーした押谷選手

ー 実際に一緒にプレーしたときの印象は?
上手かったです。動き出しとか、相手ディフェンスとの駆け引きとかも上手でしたね。年齢もベテランの域に入ってたので全盛期に比べたら落ちていた部分もあったと思いますが、それでも巧さはありました。 それと、玉田圭司さん(元日本代表、現昌平高校監督)。タマさんもめちゃくちゃ上手かったです。あの人もそのとき37歳でしたけどめっちゃキレがあって「ホントに37歳なの?」みたいな。「上手過ぎじゃない?」って感じ、それも衝撃でしたね。タマさんは、寿人さんより歳上だったんで、「それでまだそのキレ出せるの?」って、 それに驚きました。

ー お二人からのアドバイスとかは?
そこまではないですね。そのときの名古屋は、風間八宏さん(現南葛SC監督)が監督だったので、なんというか特殊すぎたんです。 自分が今までやってきたサッカーはなんだったんだろう?っていうくらい、めちゃくちゃ特殊でした。それに俺は順応できなかった。マイボールとか、繋ぐことに特化していたんで、むちゃくちゃ難しかったんです。俺は岡山時代は常に裏へ抜けてシュート、という形でやっていたのに、名古屋に行って裏へ抜けることを忘れました(笑)。この1年半でプレースタイルはめちゃくちゃ変わりましたね。

ー 名古屋の時代のプロフィールで「衝撃を受けた人=シャビエル」というのは?
いま岡山にいるガブリエル・シャビエル選手。2017シーズンの途中から名古屋に来て16試合7ゴール。凄すぎました。

ー 彼は初出場した第22節から5試合で3得点7アシストを記録しました
めちゃくちゃ上手くてびっくりしました。俺は一生ボールを取れる気がしなかった。マジで上手かったんです。足裏とかのフットサルっぽい要素をめっちゃ出してきて。速いし、キック上手いし、シュート上手いし。でも、最初のゴールをアシストしたのは俺だったんで、感謝してもらってもいいですかね(笑)。

ー シャビエル選手の他には?
攻撃で言ったらシャビエル。守備で言ったら秋田にいる加賀健一選手。40歳ぐらいのベテラン選手なんですけど、俺がジュビロにいたときに一緒にプレーしました。めっちゃ走るのが速くて、ドリブルで抜いたのに追いついてくるんですよ。俺、抜いたのに追いついてくるディフェンス初めてで、 なんだこの人と思って衝撃でした。

ー 加賀選手はFC東京などでも活躍されたDFですね
マジで速くて、抜ける気がしなかったんですよね。対面にいたら怖かった。いつも練習中の勝負は避けてましたね、怖すぎて。ジュビロのときは、加賀さんが日本代表に入れないんだったら、それ以上のディフェンスはいないだろうってぐらいずっと思ってたんですよ。代表には選ばれませんでしたけど、あのスピードを超えるDFはまだ日本人では見てないです。あとは、高さだけで言ったらマジで岩政大樹さん(元日本代表)、最高でした(笑)。

ー 岩政さんとは岡山時代のチームメートでしたね
あの人はヤバいです。速さでは加賀健一、高さは岩政大樹ですね。あんなの誰も勝てないですよ。軽くヘディングして勝つんですから。引退前でもあんなヘディングできるのはびっくりしました。試合終盤、1-0とかで勝っていると、だいたい相手はロングボールを放り込んでくるじゃないですか。それをひとりで撥ね返したりするんですよ。周りのDFはいらないんじゃないかってぐらいです。ピッチの外から見てても安心感あって、ボールが入ってくると「はい、そこに岩政いる~」と言うぐらい、それぐらい1人で全部止めてたんです。最強でした。

ー 自分のキャリアに影響を与えた人は?
岡山時代の監督、影山雅永さん(現JFAアカデミーダイレクター)です。

ー 2013、2014シーズンは影山監督のもとプレーされていましたね
影さんはだいぶ自分を変えてくれました。それまでは守備の重要さとか、もちろんやってないことはなかったですけど、 岡山の3-4-3のサッカーでは守備のスイッチを入れるのが全部シャドーなんですよ。だから、守備をやらない限り試合には出れないっていうのは、周りの選手からも言われてました。「そのポジションが1番大変だよ」みたいな。1トップのFWがどっちかのサイドにボールを出させたら、シャドーは絶対に行かなきゃいけないので、サイドバックに行って、2度追いしてみたいなプレーをめちゃくちゃやってました。そこで守備の大切さを学びましたし、それがあるから多分この年齢までサッカーを続けて来れてると思います。影さんが監督じゃなかったら大して守備なんかいらないって思っていたと思います。現代のサッカーでは必要なことですけど、当時はそこまで重要視されていなかったので。ボールを相手に取られた瞬間の切り替えは、どのチームでもまだ強く言われてない時代から岡山では言われていました。そのときがあったから、いまも続けられていますし、"チームのために" っていう行動ができるようになったと思います。

ー それまでは、FWは得点を取ればOKぐらいの感じ?
そうですね。最低限の守備しか多分しなかったと思いますが、変わりましたね。

岡山時代/(左)後藤圭太さん (右)押谷選手 ※本人提供

ー そんな新しいスタイルを受け入れられたのはなぜですか?
その前のシーズンに、岐阜からジュビロに戻っても試合に出れなくて。それで岡山に移籍したんです。最初はレンタルで行ったんですけど、どっちにしろ「ジュビロにはもう戻れないな」っていう気持ちでした。 正直、クビになるか、ここ(岡山)でもう1回盛り返せるかっていう、追い込まれた状況ではあったので「やるしかねえな」ってそのときは思っていました。
それと岡山はすごい良いチームだったんです。チームメートも良かったし、会社としてもすごいしっかりしていた。長くいたいなっていう気持ちにさせてくれるチームだったので、ここで成功したいっていう気持ちが、すごくありました。しかも、当時結婚したばかりだったんで、そういう気持ちでやれたのかもしれないですね。

2013 Jリーグアウォーズでは、ファン・サポーターが選ぶ
「J2 Exciting 22」に選出された ※本人提供

ー 影山監督から言われて印象に残っている言葉とかエピソードはありますか?
言葉は覚えてないですね。影さんとの思い出っていうと、アウェイの福岡戦で84分に決勝ゴールを決めてベンチの方に走って行ったら、影さんが1番前にいてハイタッチしてきたんですよ。ハイタッチして、その後みんなの輪に入ってワッてやったら、次の日、影さんが怪我してたんです。「お前のハイタッチでやられた」って、手首を痛めてたんですよ(笑)。それはよく覚えていますし、熱い監督でした。

後編では、3回の昇格を経験した時の裏話や、福井に加入することになった経緯、押谷選手のプライベートについてお届けします。

(ライター/細道徹)