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コミュニケーショの究極の理想はテレパシーなのではないか


2023年1月25日(水)朝の6:00になりました。

今日の記事もテレパシーでお送りします。

どうも、高倉大希です。




「食パン」は「主食用パン」の略語です。

だから、「食パン」という呼称に対して「パンはぜんぶ食べるだろ!」というツッコミを入れることは間違いです。


「教科書」は「教科用図書」の略語です。

「カラオケ」は「空オーケストラ」の略語で、
「ワリカン」は「割前勘定」の略語です。

「ボールペン」は「ボールポイントペン」の略語で、
「ダントツ」は「断然トップ」の略語です。


「あけましておめでとうございます」は「あけおめ」に、
「いつものメンバー」は「いつメン」に。

「とりあえずまあ」は「とりま」に、
「リアルタイム」は「リアタイ」になろうとしています。


言わなくてもいいことは、言わなくなっていく。

ことばのもつ大きな特徴のひとつです。

我々が無意識のうちに望んでいるのは、もしかするとテレパシーによるコミュニケーションなのかもしれません。


つまり、コミュニケーションとは、言うならば、自分が頭の中に抱いている〈抽象的〉な広義の思考内容のコピーを相手の頭の中にも創り出す行為であると言える。

池上嘉彦(1984)「記号論への招待」岩波新書


自分の頭の中にあるものをいちど言語化し、相手がその言語を解読することで自身の頭の中に再現する。

こう考えると、かなり高度なやりとりをしていることがわかります。


完璧なコピー&ペーストが理想的なコミュニケーションだとすると、言語は極めて不完全な記号です。

何なら、記号を介せずとも完璧なコピー&ペーストが可能なのであれば、それに越したことはないのかもしれません。

言い方を変えると、現時点での我々にはそれが不可能だからこそ、ある意味仕方なく言語という記号をつかってコミュニケーションをとっているわけです。


だからこそ、言わなくてもいいことは、だんだんと言わなくなっていきます。

省略しても通じ合うことができた。

直接的に表現せずとも通じ合うことができた。

我々は、このような体験に歓びを感じます。



先日こんな記事を書きました。

「前フリでイメージを共有できていれば、結論は添えるだけでいい」という内容です。


完璧なコピー&ペーストはできないという「わかりあえないこと」を前提に、待ち合わせ場所を共有できれば、歓びも一層大きくなるのだと思います。

そのためにも、あと3回くらいこの記事を読んでみてください。





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