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わかりたがり
2023年7月25日(火)朝の6:00になりました。
小さな谷川の底を写した、二枚の青い幻灯です。
どうも、高倉大希です。
小学6年生の教科書に、宮沢賢治の『やまなし』という作品が載っています。
「かぷかぷ笑う」でおなじみの「クラムボン」が登場する作品です。
『やまなし』の授業で、先生から必ず投げかけられるのが「クラムボンってなんだと思う?」という問いです。
「泡のことを指しているんじゃないか」とか「蟹の仲間なんじゃないか」とか。
子どもたちは、口々に答えます。
自分が小学6年生のときにも、先生からおなじ質問をされて、すごく嫌な気持ちになったことを覚えています。
宮沢賢治が「クラムボン」と名付けたにも関わらず、その正体がなんなのかと、考えさせようとしてくるわけです。
下手したら、作者にとってもっとも失礼な行為なのではないかとすら思います。
クラムボンは、かぷかぷ笑う。それ以上でもそれ以下でもないのです。
「マインド」や「エスプリ」のような概念は、「鳥」や「バラ」の概念と同様の意味で自然ではありえない。自然でないからこそ、言語によって概念領域に違いが生じるのだ。
「納得することができた」ということは、すなわち「いまの自分にとって都合のよい理由をみつけた」ということに、他ならないのではないかと思っています。
クラムボンが泡だということにしてしまえば、理解できた気になります。
蟹の仲間だということにしてしまえば、自分の考えが及ぶ範囲に収束できます。
どうにかして、わからなくちゃいけない。
どうにかして、わかるものに置き換えなくちゃいけない。
わたしたちは「わかる」ということに、囚われすぎているような気がします。
わかるとか理解が進むみたいなことは、つまり、いかに理解できてないかっていうことを知るための準備作業というかステップなんじゃないかという気がするんですよね。あとはその「わかる」というのを目指すことで、結局わからないわけですが、じゃあ「わからない状態というのはどういうことなのか」ということの分類学というか、解像度が上がるみたいなことはあるんじゃないかと思うんですよね。
「わかる」ということは、いまの自分の思考に収まっているということです。
もしくは、無理やり収めているということです。
自分にわかることなんて、所詮はその程度のことでしかありません。
だからこそ、「わからない」には大きな価値があります。
わからないものは、ちゃんとわからないものとして、
出会わなければなりません。
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— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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