
俺も昔はそうだった
2023年4月3日(月)朝の6:00になりました。
休まない店は、好かれるんですよ。
どうも、高倉大希です。
「俺も昔はそうだった」
こんな言葉を聞くたびに、ひねくれた青年は「べつにあなたになりたいわけじゃないんだけどな…」と思っていました。
もしかすると、実際にその人とおなじ轍を踏んでいたのかもしれません。
ただ、仮にそうだったとしても、マウントをとりたがっているようにしか思えなかったのです。
そもそも、コミュニケーションとは、わかりあうためのものではなく、わかりあえなさを互いに受け止め、それでもなお共に在ることを受け容れるための技法である。
「俺が大丈夫だったから、きっとあなたも大丈夫」
こんな言葉を聞くたびに、ひねくれた青年は「あなたに何がわかるんだ…」と思っていました。
もしかすると、励まそうとしてくれていただけなのかもしれません。
ただ、仮にそうだったとしても、マウントをとりたがっているようにしか思えなかったのです。
わかりあえないというところから歩きだそう。湿潤で美しい島国で育った私たちには、それを受け入れることはつらく寂しいことかもしれない。「柿くへば」を説明することは、とても虚しいことかもしれない。しかし、おそらく、そこから出発する以外に、私たちの進む道はない。
「俺も昔はそうだった」
「俺が大丈夫だったから、きっとあなたも大丈夫」
ふたつの言葉の共通点は、「相手のことがわかる」という前提に立っているところです。
辛さがわかる。苦しみがわかる。
自身の経験と比較して、相手の辛さや苦しみを捉えようとしているわけです。
どの辺までを正常とするという範囲を、もっと拡げなけでばいけないんじゃないかと思っているわけです。なぜなら、今の社会に生きる人の正常の範囲は、現行で考えられている正常の範囲に比べると、拡がっていると考えなくちゃいけないからなんです。
相手のことなんて、わかるわけがありません。
わかるわけがないのに、わかるという前提に立ってしまっているから、おかしなことになるのです。
きっと、悪意はありません。
悪意はありませんが、わたしたちは無意識に「自分との比較で相手のことがわかると考えてしまう」という心づもりはしておいた方がよいのかもしれません。
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— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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