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子どもに生かされる大人たち


2023年2月22日(水)朝の6:00になりました。

きみは考えを変えた。たったそれだけのことさ。

どうも、高倉大希です。




小学校教員から、教育関係の一般企業に転職して、気づいたことがありました。

それは「子どもたちが明日も来てくれるとは限らない」ということです。


学校では「明日も来る」が前提にものごとが進んでいきます。

だから、来ない子どもには「不登校」や「登校拒否」という特別な名前が与えられます。


一方で、塾のような場では「明日も来る」が、当たり前ではありません。

だから明日も来たくなるように、どうにかこうにか価値を届けます。


「学校は『来ること』が目的じゃない。大人になること、社会に出ることの方がもっと大事だよ。君が囲碁の世界で生きたいと本気で思うなら、別に学校に来なくたって構わない。後悔だけはしないようにね」

工藤勇一(2018)『学校の「当たり前」をやめた。」時事通信社


「明日も来る」が前提にあると、「30人近くの子どもたちが自分の話を聞いてくれること」が当たり前だと思うようになっていきます。

だから、逆に話を聞かない子どもがいると「その子がわるい」という判断をくだします。


30人近くが、毎日何時間も、ひとりの声に耳を傾けるために、おなじ場所に集まる。

イベントの集客だとしたら、とてもじゃないけど不可能です。

どんなに有名な人だったとしても、実現することはできないでしょう。


しかし、教育という大義名分を通せば、当たり前のように実現します。

それが、学校という場所です。


人々が講演のほんとうの内容に興味を持つことはめったにない。彼らはただ、あなたの口調や身ぶりや表情から、あなたが正直者であるか否かを探りたがっているだけです。

古賀史健(2021)「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」ダイヤモンド社


話を聞いてくれると、うれしくなります。

リアクションがあると、承認欲求が満たされます。

自分が何かを与えている気になります。


これは決して、学校の先生を批判しているわけではありません。

教育現場は、事実として、自動的に、そうなってしまう環境だという話です。


明日も来てくれることが、いかにありがたいことなのか。

自分の話を聞いてくれることが、いかにありがたいことなのか。

ここを忘れてしまった瞬間から、わたしたちは大人の力を振りかざすようになってしまいます。





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