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「同じクラス=友だち」ではないぞ


2023年4月28日(金)朝の6:00になりました。

100人で食べたいな、富士山の上でおにぎりを。(倒置法)

どうも、高倉大希です。




同じクラスの友だちなんだから、仲よくしなさい。

同じクラスの友だちなんだから、手伝ってあげなさい。

同じクラスの友だちなんだから、協力して取り組みなさい。


子どものころ、このような言葉を聞くたびに「どうして同じクラスになったら自動的に友だちになるのだろう」と疑問に思っていました。


クラスを決めたのは大人です。

自分で選んだわけではありません。

しかも、そのクラスには自分とはちがう人間が30人近く集まっています。


30人もいれば、そりゃあ「合う / 合わない」が出てきます。

さらに、その30人が2人組をつくったりグループをつくったりするわけですから、関係性の組み合わせは何パターンも発生します。


そんな状況下で「同じクラス=友だち」が成立するわけがありません。

友だちと呼べる関係性になる人と、そうはならない人とがいて、当然です。


すでに船は目的地(豊かな社会)に着いた。「ぼく」や「君」は別の小さな舟に乗って、それぞれの目的地(幸せ)に向かって航海を始めた。目的地は「ぼく」と「君」とで違う。自身が決めるしかない。目的地を決めることにさえいろいろ「試行錯誤」が必要になった。

宮台真司(2013)「14歳からの社会学」筑摩書房


それにも関わらず、なぜ「同じクラスの友だちなんだから」だなんて言葉が用いられるのかというと、友だちでいてくれた方が大人にとっては楽だからです。


友だちだから、話しかけるのは当然だ。

友だちだから、手伝うのは当然だ。

友だちだから、協力するのは当然だ。

友だちだから、仲直りするのは当然だ。


すべての理由を「友だちだから」にしてしまえば、まかり通ってしまいます。

子どもたちも、関係性の中で暮らしているわけですから、「いや、あの子とは友だちではありません」だなんてことは言えません。

「友だちだから」と言われてしまえば、口をつぐむしかないのです。


人間は、誰かとの関係の中で、その人のための分人を常に生み出している。お互いにです。相手の中には、あなたのための分人が生じる。一対のセットとして、言葉や感情のやりとりをしている。個性というのは、だから、唯一普遍の核のようなものじゃないんです。

平野啓一郎(2015)『空白を満たしなさい(下)』講談社


こんな言葉があるせいで、クラスには「友だちをつくらなければならない」という空気が充満します。

友だちがいることが正義であり、友達がいないことが悪になってしまいます。


たまたま近くに住んでいた同い年が、たまたま同じ場所に集められただけです。

だれとも気が合わない可能性だって十分に考えられます。


無理して友だちをつくる必要なんてありません。

話してみたらおもしろくて、気がつけば友だちになっていた。

話してみたらつまらなくて、気がつけば接点がなくなっていた。

それでよいではありませんか。


むしろ、そんな「気がつけば」を意図的につくり出すことこそが、大人の役割なのではないでしょうか。






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