「同じクラス=友だち」ではないぞ
2023年4月28日(金)朝の6:00になりました。
100人で食べたいな、富士山の上でおにぎりを。(倒置法)
どうも、高倉大希です。
同じクラスの友だちなんだから、仲よくしなさい。
同じクラスの友だちなんだから、手伝ってあげなさい。
同じクラスの友だちなんだから、協力して取り組みなさい。
子どものころ、このような言葉を聞くたびに「どうして同じクラスになったら自動的に友だちになるのだろう」と疑問に思っていました。
クラスを決めたのは大人です。
自分で選んだわけではありません。
しかも、そのクラスには自分とはちがう人間が30人近く集まっています。
30人もいれば、そりゃあ「合う / 合わない」が出てきます。
さらに、その30人が2人組をつくったりグループをつくったりするわけですから、関係性の組み合わせは何パターンも発生します。
そんな状況下で「同じクラス=友だち」が成立するわけがありません。
友だちと呼べる関係性になる人と、そうはならない人とがいて、当然です。
それにも関わらず、なぜ「同じクラスの友だちなんだから」だなんて言葉が用いられるのかというと、友だちでいてくれた方が大人にとっては楽だからです。
友だちだから、話しかけるのは当然だ。
友だちだから、手伝うのは当然だ。
友だちだから、協力するのは当然だ。
友だちだから、仲直りするのは当然だ。
すべての理由を「友だちだから」にしてしまえば、まかり通ってしまいます。
子どもたちも、関係性の中で暮らしているわけですから、「いや、あの子とは友だちではありません」だなんてことは言えません。
「友だちだから」と言われてしまえば、口をつぐむしかないのです。
こんな言葉があるせいで、クラスには「友だちをつくらなければならない」という空気が充満します。
友だちがいることが正義であり、友達がいないことが悪になってしまいます。
たまたま近くに住んでいた同い年が、たまたま同じ場所に集められただけです。
だれとも気が合わない可能性だって十分に考えられます。
無理して友だちをつくる必要なんてありません。
話してみたらおもしろくて、気がつけば友だちになっていた。
話してみたらつまらなくて、気がつけば接点がなくなっていた。
それでよいではありませんか。
むしろ、そんな「気がつけば」を意図的につくり出すことこそが、大人の役割なのではないでしょうか。
サポートしたあなたには幸せが訪れます。