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ぼくのすべてをこの文章に込めました


2023年3月28日(火)朝の6:00になりました。

不具合で投稿されていなかったようですが、読めるようになったその瞬間が6:00です。

どうも、高倉大希です。




「オレのすべてをこの曲に込めました」


きっと当人もパフォーマンスのつもりで言っているのだと思います。

しかし、それが前提だったとしても、ついつい「そんなわけあるかい」と思ってしまいます。


基本的に表現は、引き算でできあがります。

この世界のどこを切り取って、どう見せるのか。

その選択に、つくり手の思考と努力が反映されます。


人々が講演のほんとうの内容に興味を持つことはめったにない。彼らはただ、あなたの口調や身ぶりや表情から、あなたが正直者であるか否かを探りたがっているだけです。
古賀史健(2021)「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」ダイヤモンド社


だからこそ、いい曲を聴いたときには、そのつくり手に「会って、話してみたい」という気持ちが芽生えます。

本でも映画でもおなじです。


「ここを切り取って、こう見せてくる人」が、おもしろくないわけがない。

そんな気持ちになるのです。


本当に僕が感動するのはだね、全部読み終わったときに、それを書いた作者が親友で、電話をかけたいときにはいつでもかけられるようだったらいいな、と、そんな気持ちを起こさせるような本だ。
J.D.サリンジャー(1984)『ライ麦畑でつかまえて』白水社


逆に言うと、「すべてを込めたつもりでいる表現」はあまりおもしろくありません。

緊張でガチガチになっている芸人さんの漫才で、笑えないのとおなじです。


引き算によって生まれるゆとりが、こちらにとっての安心材料となり、当人の魅力にもなります。


いい文章の条件としてぼくは、「苦労の跡がどこにも見当たらない文章」や「最初からそのかたちで存在していたとしか思えない文章」を挙げた。
古賀史健(2021)「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」ダイヤモンド社


練習をしすぎると、この「すべてを込めたつもりでいる表現」に近づいてしまいます。

「練習どおりに実行すること」に躍起になり、ゆとりが失われてしまうからです。


そうならないために必要なことは、ただひとつ。

はじめから「すべてを込めることなんてできない」という前提に立つことです。


能力の問題でも、気持ちの問題でもありません。

事実上、不可能なのです。


不可能を可能だと思い込んだまま、理想を追い求めてしまうと、その差分にいつまでも苦しむことになります。


不可能を可能だと思い込まないこと。

そして、可能を不可能だと思い込まないこと。


大抵の苦しみは、このどちらかに起因します。






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