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僕が英語コーチになる理由 第3話 "Door is always open."

「ここは一体、どこだ?」

ラピッドシティ空港に降り立った僕は衝撃を受けた。

こんな広い空、生まれて初めて見た。

360度、地平線しかない。そこには空と大地があるだけだった。

1994年6月、僕の初めてのアメリカ。

摩天楼もハリウッドも無かった。

そこは中西部、サウスダコタ。地の果てだった。

ヒゲの師匠と僕は空港から車で、気の遠くなるような一本道をひたすら走った。目的地まで3時間。

行けども行けども景色は全く変わらなかった。大地と空と一本道。僕の気持ちはずっとワクワクしていた。ホンマ世界は広い!と。BGMはヒゲの師匠セレクト「柳ジョージ・ベスト」。やけに風景にあっていた。

やがて、インディアン居留区の中にある。小さな集落にたどり着いた。

そこで1人の大柄で恰幅の良い、40代位の男性が僕たちを出迎えてくれた。彼の名はベン・エルク・イーグル。アメリカインディアン、ラコタ族の人だった。みんな、彼のことをベンジーと呼んでいた。包み込むような柔らかい笑顔が印象的だった。

ヒゲの師匠と僕は2週間、彼の家にお世話になった。師匠とベンジーはまるで兄弟のようだった。お互いをブラザーと呼び合う位に。

当時、僕はまったく英語を話せなかったし、ベンジーが言っていることもほとんどわからなかった。それでもベンは心優しく、いつもニコニコと笑顔でそんな若者にもいっぱい関わってくれた。まるで息子に接するように。僕は英語が話せればよかったのにと、初めて思った。

あっという間に2週間が過ぎ、別れ際にベンは僕にこう言ってくれた

This is your home in the U.S.
ここは君のアメリカの家だよ。
Door is  always open.
ドアはいつも開いてるからね。

僕は胸が熱くなった。
こんな心優しい人と初めて出会った気がした。

けど英語が話せなかったことが、めっちゃ悔しかった。ベンジーともっともっと話したい。そして、もっともっと彼やラコタの人たちのことを知りたい。

英語が話せるようになって、絶対にまたここへ来る!

僕はその時、そう自分に誓った。

そして僕をここに連れてきてくれたヒゲの師匠には、どれだけ感謝の言葉を述べても足りないと感じた。だから僕は言葉じゃなくて、行動でこの恩は生涯、返していくと決めた。

帰国後、僕は人生で初めて真剣に英語を勉強し始めた。ベンと話すために。
そして就職はせずに、自由な時間が得られる大学院に進んだ。ベンジーに会いに行くために。

初めての渡米から2年後、1996年8月。22歳の僕は単独でここへ戻ってきた。もちろん、前よりも少しは英語がしゃべれるようになって。

今度はあの長い長い道のりを、1人でレンタカーを運転した。BGMはもちろん「柳ジョージ」だ。本当にたどり着けるか不安で不安で仕方なかったが、地理感覚の良いことが幸いし、迷わずベンの家に僕は着いた。

本当にドアは開いていた。

Welcome home, Koichi!
コウイチ、おかえり!

ベンジーは笑顔で僕を迎えてくれた。

ベンジーと僕はお互いのことを毎晩話し合った。彼は部族のオフィスで保護観察官として若者の更生に努めていた。ベンはその温厚な人柄ゆえ、誰からも好かれていた。

ベンジーは子どもの頃、里子に出されて家族がバラバラになった。自分が何者なのかわからず苦悩したこともあった。けど、今は自分の家庭を持ち、兄弟も親戚もみんなこの居留地に戻ってきた。「とても幸せだよ」とベンジーは語ってくれた。

ベンの家族も親戚も友人も、みんな僕と仲良くしてくれた。なんだか田舎の実家に帰ってきたような、とてもあったかい気持ちになった。

拡大家族。
ラコタの人たちがとても大切にしているもの。いつしか、僕もベンの拡大家族の1人になったような気分だった。

そしてある出来事をきっかけに、ベンと僕との絆はさらに深まることになる(これは僕の人生において最も重要な話の一つなのでまた改めて書きます)。

英語が話せること。

それは、僕にもう一人の父を与えてくれた。
それは、とてもとても僕の人生を豊かにしてくれた。

もう30年近くも前の話なのに、僕は鮮明にベンと過ごした日々を覚えている。

それは、僕の心の1番深いところで静かに燃え続けていた、小さな火だ。

僕は目を閉じ、その火を感じてみる。

「コウイチ、お前はどうなりたいんだい?」

「今度は僕がベンジーみたいに心が広く優しい人になりたい。人々の心を温め、勇気づけられる存在になりたい。」

火が、再び熱を帯びはじめていた。

【最終話に続く】








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