映画『わたし達はおとな』:二人の恋と朝ご飯

映画『わたし達はおとな』(加藤拓也監督)は、大学生の優実(木竜麻生)と直哉(藤原季節)のほんの一時の恋を生々しく描いた映画だ。
その生々しさは、見る側の個人的な感覚や記憶を刺激する。

作品は、時間軸上を行き来して、今と過去のシーンが交錯するように描かれる。
異なる瞬間の場面が繋ぎ合わされたパッチワークのように。
そのそれぞれの場面には、幸せな笑顔もあれば、辛い喧嘩もある。
一つ一つを見れば、なんてことはない、どこにでもありそうな恋愛のワンシーンだ。
でも、だからこそ、見る人誰もが、かつての自分の、いつかの誰かとの、どこかの何かを思い出して、既視感を覚えるワンシーンを見付けるのではないだろうか。
微笑ましく思うだろうか、イライラするだろうか、何か一言言いたくなるだろうか。
作品は、刺激した見る側のリアクションと響き合い、作品とその人の間だからこその彩りを見せるだろう。

二人の恋が決して特殊なものではなくても、二人と共に時間軸上をたゆたうという体験。
二人の揺れ動く気持ちと一緒になって、見る側も幸せと辛さの間を行き来する。
「普通」の恋を、そんな風に見る鑑賞体験。
それは正に映画だ。

物語は朝ご飯で始まり、朝ご飯で終わる。
二人の出会いや恋の場面と食事が結び付けられているのが印象的だ。
だからなのか、望まない妊娠という重い出来事を扱っていながら、そこに描かれた恋は重くなり過ぎず、まるで食事をとることのように、人生の中では当たり前の日常の風景になっている。

つわりになっても、別れても、人はご飯を食べる・・・。
物語の最後、二人は激しい喧嘩をし、二人の恋は終わりを迎える。
そして、部屋に一人残った優実は朝ごはんを作り、食べる。
文字通り朝飯前なのかもしれない、とでも思ってしまう程に。
その頃直哉は朝マックでも食べているだろうか?
作品は、どこか軽やかだ。

ところで、その最後の朝ご飯のシーンは本当に美しい。
卵を割る手付き、朝日が柔らかく差し込む薄暗い部屋、トーストをかじる音、そしてまた夜が明けて、日常が続く・・・このシーンのためにこの映画があったのではないか、とまで思う。

最終的に、物語に救いはない。
でも、二人の苦しみはほんの些細なことだったのかもしれない、とも思う。
優実が相変わらず作り続け、直哉が相変わらず食べないグリーンピースのことのように。

山下 港(やました みなと) YAMASHITA Minato


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