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初稿の連載小説「もっと遠くへ」3-4

3-3はこちら↓
https://note.com/fine_willet919/n/n9196971f5719


壁の向こう側では、早くも何かが始まるそんな気がして、それを互いに言わずとも感じていましたので、黙って、壁に男二人並んで、耳を当てていました。

江戸のボロ長屋から一変して、東京のボロアパートに舞台を移しましたが、薄い壁に耳を当てていると、そこに大きな違いなどあってないような、そんな気さえしてくるのです。

少しばかり水気を含んだ粘着性の、その音を聞きながら、

「幸せもんやな」

と、消え入るような細い声で亮介は言いました。

「隣人のことですか」

そう聞きましたら、壁から離れて、先程まで芝浜を上演していた床(座布団代わりに枕を敷いていた)に腰を下ろし、

「それもある、これを隣で聞けるお前も幸せで、隣の男女もきっと幸せで、この家に来れた俺も幸せで、」

と、言いました。

「でも、悲劇でしたね」

亮介の顔色が変わりました。

「悲劇?」

「はい、芝浜は途中で終わってしまって、悔しかったでしょう」

先程までの亮介の語りを思い出し、少し哀れに思えたのです。ですが、亮介の返事は意外なものでしたので、今でも鮮明に覚えています。

「阿呆か、お前は」

一つ間をおいて、彼は答えます。

「もし、あそこで終わってたら、それは悲劇以外の何物でもない。そりゃそうや。無念ってもんや」

「はい、実にいいところでしたしね」

「まあな。できることならあのまま最後までいきたかった。でもな、」

既に、隣人の事など二人の頭のどこにもありませんでした。

「その後が肝心やねん。俺の顔を見て、お前は笑ったな。なんや間抜け顔に見えたんかしらんけど、人の顔見ておもろかったって言うたよな」

「そりゃ、あんな顔されたら誰だって笑いますよ」

亮介は、失礼やなと微笑って、

「そのあと、俺らは隣人の物音に耳を傾けて壁にべったり張り付いて、傍から見たらただの阿保やろ」

思い返すと、また可笑しくなって苦笑した。

「つまり、お前が言う悲劇ってもんは、ある、ほんの一部分を凝視したにすぎんってことや。もっと広い目で見れば、それは喜劇やねん、喜劇になんねん」

喜劇になる…。続けて、喜劇とは悲劇の中でこそ生まれるものだとも言っていました。

「まあ、もっと言うたら、さっきの出来事も、喜劇ではないと思うけどな。結局は考え方というか、物の見方次第で、その二つは表裏一体なんやと思うわ」

この時、僕は彼が楽観的である本質はここにあるのだと理解しました。悲劇的な状況で人生を諦めてしまったら、その人生は本当の意味で悲劇になってしまう。

常に「悲劇的なもの」から、「喜劇的になりうるもの」を探すこと。これが大切なのだと。

とするならば、亮介が言う、物の見方と言うものをもっと広げてみて見れば、僕たちが生きているこの社会全体がつまりは悲劇そのものであり、僕たちがこの「悲劇的な世の中」に生まれてきた事自体も、まさしく悲劇になり、更にそこで生きていくという行為は「悲劇を追求する行為」になるのではないか、とも思う。

         ***

続きは9月8日(金)です。
お待ちください。

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