「上級国民/下級国民」を読む

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 橘玲『上級国民/下級国民』を読む。

1 本書では、「上級国民/下級国民」の区別が、個人の努力によって移動(=上昇)可能な「上層/下層」とは異なり、固定化された一種の社会的身分として捉えられており、現代社会が「上級国民=持てる者=リア充」と「下級国民=持たざる者=リア終」に分断されている様が描かれている。
 
 本書の中で私にとって一番印象に残った箇所を挙げるとすれば、次の一文になろう。

 「団塊の世代は政治家にとって最大の票田です。彼らの死活的な利害が「会社(日本的雇用)」から「年金」に移ったことで「働き方改革」は進められるようになったものの、年金と医療・介護保険の「社会保障改革」はますます困難になりました。・・・理想主義の官僚がどんな「改革案」を出したとしても、有権者の不安を煽るとして政治家によってすべて握りつぶされてしまうでしょう。」(『上級国民/下級国民』77頁)

 政治家(政党)の目的が「選挙に勝利し、国会の多数を占める」事にあるならば、団塊の世代の人口総数(=有権者数)が若者のそれよりもはるかに多いこの国では、政党が選挙に勝利するためには、若者に受ける政策ではなく、団塊の世代に受ける政策を提示しなければならない。
 これを裏返して言うならば、今の日本では選挙において(与野党の双方から)、若者に有利な選択肢が提示されるチャンスそれ自体が奪われており、選挙を通じて民意を国会に反映するという民主制の建前に反して、選挙があっても若者の民意は国会に反映されない状況になっている。

 民主制のモデル論は、個々人が国家との間で社会契約を結び、国民は国家に対して納税等一定の義務(と私権制限)を負う代わりに、国家は国民の権利や生命を守るというものである。こうした社会契約説においては、国民は合理的な判断力を有すると同時に、年齢や職業等において等質な存在が想定されている。
 ところが、現在の日本においては、たとえこの国が将来的に破綻するとしても、団塊の世代に受ける選択肢を提示する事が政治家にとって最も合理的な選択であり、若者は選挙に行っても自己に有利な選択肢を選ぶ機会すら剥奪されているために、わざわざ選挙に行って投票するのが無意味な行動になってしまっている。要するに、現在の日本においては、国民の等質性という民主制の前提(のひとつ)が失われており、政党や個々の国民が合理的に行動した結果、この国の未来に関わる問題について不合理な政策しか実現できないというパラドックスに陥っており、民主制は深刻な機能不全を起こしている。
 そして、そうした民主制の機能不全が回復されるには、団塊の世代が文字通り、この世から退出するまで待たなくてはならないという悲惨な結論になるのかもしれない。

2 フェミニズムを支える理念は「男女平等」にある。この点、男と女が「人間」として等しい存在である事に異論を挟む者はいないだろう。
 
 そして、フェミニズムやジェンダー論が明らかにしたように、専業主婦は、戦後の高度経済成長期に特有の存在でしかなく、「男は外で働き、女は内(家)で家事・育児に遷延する」という発想を正当化する歴史的根拠はない。また、性別と能力差に関連性がないのだとすれば、同じ労働について女性である事のみを理由にして差別的取り扱いをするのは間違っていると言えよう。
 そうしたフェミニズムやジェンダー論の業績を踏まえても、私は「男女平等」という観念に対してある種の生理的な違和感を感じてしまう。そうした違和感の根底にあるのが何であるのか自分でもずっと分からなかったが、本書を読んで思ったのは、男と女は「人間」という抽象的なレベルでは平等な存在であっても、両者の間には「動物」としての具体的(=現実)レベルにおける有り様が異なっている事から来る違いがあるのではないか?という疑問である。
 平たく言うと、男と女は外貌からして異なっている。その目に見える具体的な差異を捨象して、「人間」という抽象的レベルで「平等」を唱える事に何処か無理はないのだろうか?という事である。

「男は精子をつくるのにほとんどコストがかからないため、自分の遺伝子を後世により多く残すのに最適な性戦略は、「(妊娠可能な)女がいたら片っ端からセックスする」になります。・・・それに対して女は、いったん妊娠すれば出産まで9か月かかり、生まれた赤ちゃんは一人では生きていけませんから1~2年の授乳期間が必要になります。この制約によって、生殖可能年齢の間に産める子供の数には限界があるし、出産後も男(夫)からの支援がないと母子ともども生きていけなくなってっしまいます。・・・女性にとっての最適な性戦略は、長期的な関係を築ける男性を選び、そこから最大限の「支援=資源」を手に入れることなのです。
 進化論的には、「愛の不条理」とは、男の「乱交」と女の「選り好み」の利害(性戦略)が対立すること。」(同112頁)

 橘氏は、本書でフェミニズム批評をしているわけではないが、進化心理学の観点から「女性が男性より幸福度が高い」事について述べている。 
 フェミニズム言説は、知的・社会的ポジションの高い女性が、自らの特権を拡大するために、バカなオヤジや知的・社会的ポジションの相対的に低い女性を「啓蒙する」というパターンで成り立っている。もし、男と女が「動物」として具体的レベルにおいて異なっているのであれば、その差異に応じた取り扱いをするのが、男と女を正しく平等に取り扱う事に繋がるはずである(所得に応じて税率が異なる累進課税と同じ)。
 特に現状に満足している女性に対して、「お前は知的に遅れている」と称して、その変革を迫るフェミニズム言説を押し付ける事は余計なお世話にしかならないのではないだろうか。

 橘氏が引用する進化心理学にまつわる言説が正しいか否かについては、(引用元の原著を読んでいないので)その判断を保留せざるを得ないが、もし進化論的観点から男と女の違いを「科学的に」実証できるのだとすれば、フェミニズムに対する強力なアンチテーゼになるだろう。

 もっとも、進化論的に導かれる合理的な男女の関係は、「上級国民=持てる者=リア充」男が全ての女を独占する「一夫多妻制」となり、「下級国民=持たざる者=リア終」男にとってますます生き難い世の中になる可能性が高い。

 

 

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