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コインの表裏

1 「歴史」とは、特定の価値観に基づいて選択された事実を組み合わせて作成された物語である、と書いた。

 「歴史」は、複数の事実群に対する評価を含む物語であるが、同じひとつの事実についても、語り手が違えば、全く異なる評価(ないし話)になり得る。

 「同じひとつの事実であっても、語り手によって評価が異なる(=別の話になってしまう)」という現象は、対人関係において生じるあらゆる出来事についても等しく妥当すると思う。

 以前私がブラジリアン柔術(BJJ)の試合に出た時の話になる。

 前の試合で足を傷めてしまったので、次の試合の相手は階級も二つ上だし棄権しようかとも思ったが、「セルフディフェンス」のいい練習になるから、「ディフェンス」と「エスケープ」に徹して、「サブミットされない事に集中しよう」と考えて試合に臨んだ。

 試合開始早々、相手選手に跳ね飛ばされて下になったが、足が効かないのでガードも取れず、簡単にサイドポジションを取られた。

 そこから、彼が仕掛けたキムラを防ぎ、腕十字に切り替えてきた瞬間に「アームバー・エスケープ」を使って逃げ、マウントを取られたら即フレームディフェンス。

 彼はすぐまたサイドアタックに切り替えて、キムラを狙ってきたので、亀になってバックを献上し、バックアタックを凌いでいると、そこで試合終了のブザーが鳴った。

 私は、「ディフェンス」と「エスケープ」に徹して何とか守り切る事が出来たと満足して、相手選手に「ありがとうございました。機会があったらまたよろしくお願いします」と挨拶して別れたのだが・・・

2 後日、相手選手のSNSに、私との試合を評して「体力には余裕があった。タップを取って勝つには極め力が足りない」と書いてるのを見て、「うーん・・・まあ、競技柔術的にはこういう評価になるだろうな」と思った。

 競技柔術的な発想からすれば、彼は私を「パスガード」し、「マウント」を取って、さらに「バックポジション」をキープしている。
 終始試合を支配していたのは間違いなく彼である。

 また、私が試合前に足の負傷をしていた事は、彼の全く与り知らぬところであり、こちらの目標が「サブミットされない事」だったとしても、それを達成できたか否かは、彼にとってはどうでもいい話だろう。

 「セルフディフェンス」を試合で表現しようとすれば、対戦相手も含めてこういう競技柔術的な評価を覚悟しなければならない。

 自分より若くて、大きな選手を相手に「サブミットされなかった」と威張って?みても、それは会場にいる他の人々から見れば、「ポイントで大差を付けられて負けただけじゃないか!」と返されて終わりである。

3 この経験から私が学んだのは、(自分も含めて)世の中の多くの人は、物事を自分に都合よく解釈して生きているという事である。

 日々生起する出来事に対して、常にネガティブな評価しかしないという生き方は、精神的にキツイので、物事を自分に都合よく解釈するというのは、脳が自己保存本能に基づいて無意識に行っている選択なのかもしれない。

 同じひとつの事実に関して、それに相対した人毎に評価(=話)が異なるというのは、結局のところ、各人が認識の主体として別個の存在であり、それぞれに価値評価の基準が異なるから、当然と言えば当然なのだが、そこから同じ事実についての「認識の非対称性」という問題が生じる。

 単なる恋のすれ違いから、ストーカーに至るまで、恋愛感情に基づく行動ひとつを取ってみても、男女間で評価が著しく異なるのは、こうした「認識の非対称性」の問題が絡んでいる。

 人が往々にして物事を自分に都合よく解釈するのは、自己保存の観点から仕方がないと思うが、同じ物事について自分と同じように他人も評価しているとは限らない、という点には注意が必要だろう。


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