「もっと言ってはいけない」を読む

1 今朝(3月23日付)の日経新聞に次のような記事が掲載されていた。

 「国民の4割が肥満という米国で特効薬ともいえる新薬が広まっている。自分で注射を打つだけで食欲を抑えられる肥満症治療薬(「ウゴービ」)が2021年に承認され、手軽なやせ薬として世代を超えたブームとなっている。
 「ウゴービ」の注射は週1回のみ、保険適用なら月25ドル(約3800円)ほどで利用できるという手軽さがウケているかららしい。
 その反面で、医師が簡単に肥満症薬を処方し過ぎるため、副作用(吐き気や脱毛等)の説明が不十分だったり、使用をやめた途端にリバウンドする例も多い。
 さらに、体形の違いが新たな差別を生み、米国の分断を助長するとの危惧もなされている」(2面より要約して引用した)。

 一昔前、アメリカでは「太っている」ことは、自己管理能力の欠如とみなされ、就職や昇進で不利な扱いがなされていたらしい。そこで、アメリカのエグゼクティブ達は日々ジムに通って汗を流し、プロポーションの維持に余念がない、という話をあちこちで読んだ記憶がある。

 さて、橘玲氏の『言ってはいけない』(及び、その続編である『もっと言ってはいけない』いずれも新潮新書刊)によると、体重の遺伝率は7割を超えるそうである。
 
 「遺伝率とは、身体的特徴やこころの特徴(知能や性格、精神疾患など)のばらつきのうち、どの程度を遺伝で説明できるかの指標」(橘玲「もっと言ってはいけない」42頁)である。
 
 体重の遺伝率が7割を超えるという事実は、平たく言えば、子供が太っていることの原因は7割が親からの遺伝で説明が付くという事を意味する。
 
2 橘氏が語る「リベラル」では、性別や人種、国籍等生まれによって差別してはならないという信条が共有されているらしいが(したがって、政治哲学用語としての「リベラリズム」とは少し意味が違う)、そうした「リベラル」の信条を支える観念の根底には、(性別や人種等の先天的な特徴を除いた)体重や学歴、年収等の後天的に獲得される個性については、個人の努力によっていくらでも改善可能だという自己責任論がある。

 「リベラル」の自己責任論、とりわけ、後天的に獲得される各種個性について、橘氏は主に「知性」の側面(遺伝率は8割に達するそうである)から、「個人の努力で乗り越えられる」というのは幻想に過ぎず、その多くは遺伝によって生得的に決まっていると述べている。

 橘氏の著作の特徴は、行動遺伝学や社会心理学を始めとする業績に触れた上で、その業績から氏のオリジナルな推論を展開し、結論としての仮説を提示するという流れの集積で構成されている点にある。
 したがって、橘氏の結論は、オリジナルの業績からの推論としては「もっともらしい」が、他の推論の可能性も論理的に排除されておらず、結論が科学的に検証されてはないという意味で、あくまでも仮説に過ぎない。
 つまり、氏の結論が科学的に正しいか否かは「分からない」という点に注意が必要である。

 それを踏まえた上でも、体重特に体形が親から子に遺伝するというのは、私個人の経験から見ても「それで説明が付く」という意味において、それなりに納得が出来る。
 話が脱線したが、努力さえすれば誰でも痩せられるという「リベラル」な考え方が支配しているアメリカにおいて、遺伝的な=先天的な要因によって痩せられない人を「努力が足りない」と言って差別するのは、実は生まれによる差別に他ならず、それを禁じた「リベラル」の信条に背馳しているという矛盾が存在するのである。
 
3 アメリカで「ウゴービ」が爆発的にヒットしている理由のひとつは、おそらく努力さえすれば誰でも痩せられる、ひいては、痩せられないのは自己管理能力が足りない、という「リベラル」の誤った自己責任論に苦しんでいる人が多いからだろう。

 だが、橘氏が本書で述べる「遺伝率」の話が正しければ、体形についてはかなりの割合でそれが生まれによって決定され、個人の努力ではどうしようもない事例が多数存在するはずである。

 「生まれによる差別は許されない」とする「リベラル」の主張は、個人が自己責任によって各種形質を獲得し、「個性」を作り上げていくという人間観を背景にしていると同時に、そうした自己責任を問う前提として、社会のあらゆる領域において各人の自己決定を尊重すべきというかなりラディカルな見解になっている。

 だが、差別を許さない「生まれ」と、自己責任の結果として差別されても仕方がないとされる「個性」は、体重を例に取るまでもなく、その境界線はかなり曖昧である。
 また、本書で展開されている氏の知性に関する論考が正しければ、実は「努力」出来るか否かもかなり「遺伝」によって決まっているらしい。
 つまり、世の中には一定の割合で「努力したくてもできない」という人が存在するという事である。

 「リベラル」の主張は、かように矛盾に満ちているし、その矛盾が本稿で取り上げた「ウゴービ」のような形で具現化しているのを見ると、なんともいたたまれなくなってくる。
 日本でも先月から「ウゴービ」の発売が開始されたらしいが、「ウゴービ」を注射してまで痩せる事は果たして「努力」なのか?それを注射する前に一度立ち止まって考えて欲しいと願う。

4 橘氏の著作をここ2週間かけて何冊か読んだが、氏の著作は明確なメッセージがあるという意味で、魅力がある事は間違いない。

 ただし、遺伝率で人間の特徴のばらつきをかなりの程度説明できるという事は、個別の読者の現状を遺伝で説明できる事を意味していない、という点にも注意が必要だろう(氏も自らを「遺伝決定論者ではない」と明言している)。
 本書を読んで、「自分を取り巻く現状が思い通りにならないのは、自分の努力が足りないからではなく、生まれが悪かったのだ」と思って救われる人もいるかもしれないが、本当にその現状認識が正しいのか否かは「分からない」のである。

 また、幸福になりたければ「咲ける場所に移りなさい」という氏のアドバイスも、それ自体は尤もに聞こえるが、「自分が咲ける場所が何処か?」という問いについては何も答えてくれていない。
 それは氏が知的に不誠実だからではなく、行動遺伝学や社会心理学が社会を相手にするものであって、個人を相手にする学問ではないという限界から来ている問題だと思われる。

 そうした点に注意を払って読めば、橘氏の著作は十分面白い。特に「知ったか」の手合いの元ネタが橘氏の著作である事が今回よく分かった。嫌な読み方だとは自分でも思ったが・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?