啓発されることの危険性
僕はいわゆる自己啓発とかモテるための動画みたいな『成功するためのメソッド』が羅列される話が好きじゃない。
なぜなら『成功』への捉え方があまりにも資本主義的な世界観すぎるためそこに『意志の力強さ』を感じられないからだ。
ここで僕が言う『意志の力強さ』とは『欲求に対する意志の力強さで』はなく『世界に対する意志の力強さ』のことである。
金があればそれはないよりもいいだろう。
モテるということもモテないよりも気持ち良いものだろう。
それはそれでよいことであるし、僕自身もそれらについては深く考え抜いた上で最終的に異論はないつもりだ。
重要なのは「なぜそれが良いことであるか」という理由とそれに勝る価値はないのだろうか?と考えられた上でその答えに辿り着いのかどうかということであり
『自分は世界に踊らされているのか、それとも世界で踊っているのか』
という認識を常にしっかり持てているかどうかが『意志の力』を持てているか否かの違いになる。
要するに金があればあるほど良いというのも、モテればモテるほど良いというのも、社会の中で広く認められている価値観のレールに過ぎないわけであって、それらに対して何も考えずにただ従うというのは、自分の力で輝いているように見えても実際はただ単に深く物事を考えない人達が設置した無機質なライトに照らされているようなものである。
合理化や効率や最短ルートなどと宣う人は少なくない割合で内的な世界を無機質に捉え過ぎており『人の数だけ世界がある』ということが感覚としてあまりわからないようだ。
しかし人間は精神の中に黄金の太陽を宿さなければならない。
或いはそれが宵闇の月光でも良いだろう。
自らの内側から溢れ出る真実を追求したいと思えた時、人は主体として真に輝くことが可能になる。
内的な世界を無視した上で規格された『成功』のレールに則って成功を収めたとしても、それを失った時やその価値観が崩れるなにかに出会ってしまった時に、自らが必死に掴んだはずの輝きが見せかけのチープな虚栄であったことに深く絶望することになってしまうのである。
自己啓発やモテるための動画などを発信する人の多くは、そこまで教えてくれない。
なぜなら彼ら自身が多くの場合に僕が述べた様な危険さに気づいていないからであり、ゆえに彼らの言葉はどこかで聞いたことのあるような薄ぺらい名言ばかりになるのである。
なお、それらの危険性を承知の上で他者を誘導する様な悪質極まりない人間もおり、こういった人達は最も醜く恐ろしいものだ。
以上のように表面的なことばかりに囚われて人生哲学を考えなかった人たちが語る『成功』は内的な世界を無機質に捉えすぎているため辿り着く先が全て『同一の目的(ゴール)』になっているから面白みがなく、またそれにより人の精神を危険な方向へと導く恐れすらある。
忘れてはいけないのが『社会的な成功など単なる心の豊かさのための手段に過ぎない』ということだ。
「なんだか綺麗事ばかり抜かしているけれどもそういうお前の本性はどうなんだ」
読者の方からそんな声が聞こえてきそうなので、僕の金やモテることに対しての見解を赤裸々に述べていきたい。
正直なところお金なんてあればあるほど良いし、今すぐに10億円貰えるとしたら僕は絶対に貰いたい。
当然のことである。多くの人がどれだけ苦労しても手に入らないであろう大金が貰えるというのならば、それをわざわざ拒む選択をするわけがない。
が、かといって自分で10億稼ぐ努力はしたくない。
それに見合うための努力や人付き合いなど絶対に僕はしたくないと断言する。
従って、僕が10億円を手に入れることはおそらく今後ないだろう。
金を稼ぐということは等価交換であるので、それ相応の努力をせずに大金を手に入れられるなんて道理の外れた話はあってはならない。
そういう道理の通らない大金の手に入れ方が現実世界に実際にあるかどうかではない、あってはならないのだ。
「さっき10億円欲しいと言っていたじゃないか。本当に欲しいなら心に正直になって努力するべきだろう」という手厳しい声も聞こえてきそうなので、しっかりと僕の真意を伝えたい。
たしかに僕が大金を欲しいという気持ちに嘘はこれっぽっちもないが、そもそもの前提として僕にとってお金は『自由を行使するためのチケット』にしか過ぎないし、つまり心の豊かさを補佐する手段としての道具程度にその価値は留まるということだ。
心の豊かさを守るためにお金があるというのに、お金のために心の豊かさを失ってしまうほどの努力や対人関係を築いていくなどというのは本末転倒極まりない話である。
モテるということについての価値は、もっと丁寧に扱わなければならない。
僕にとって『モテる』という言葉を定義すると『他者の精神を誘惑し魅力してしまうのが上手な人』であり、それはお金の問題よりも更に深く人間としての哲学に結びついてくるのである。
僕には一つの論理がある。
身体的な関係というのは深く精神が結びついた状態の結果として訪れるか、或いは肉体的な交わりにより最終的に互いの精神を結び付かせるための過程であるという論理だ。
つまるところ『モテる』という概念に対して、非常に強くエロティシズム的な要素を持ち込んでいるのだ。
僕は自分の美を完成させる上で、自らもエロティシズムの体現者となることは必須の事項だと考えている。
従ってやはり大多数の人と同じ様に僕もモテたいかと問われれば、両手をあげて首肯をすることになる。
さて、それでは僕のお金とモテることについての見解を述べたことだし、今から僕にとってとても大切な美学の話をしていきたい。
僕は自らに問いかける
『本当に自分が10億持てる品性と知性があるのか、本当にモテまくっても自らのエロティシズムを安物にしないでいられるか』という疑問を。
お金はあればあるほど良いけれども、そんなに大きなお金をもし手に入れたとして自分が品性を保てるのかなんてことは手に入れてみなければわからない。
今もけっしてモテないわけではないが、それはもうアイドルのようなモテ方をしてしまった時に安っぽい性に満足して、エロティシズムの追及を辞めないでいられるかわからない。
豪華絢爛な装いに対して本人の品性が追いつかないことほど虚しく醜いことはないではないか。
人は社会的地位や求められる技術などに相応な報酬が手に入るようセッティングされているが、品性は報酬を手にするための条件に組み込まれていないのである。
だから成金や社会的な成功だけに目が眩んだ一定数のインフルエンサーが醜く浅ましい振る舞いをする場面を見ることも少なくないはずだ。
そうなってしまうようなら、僕はお金に関しては程々で良いと考えている。
モテることにしたって自らの追求する真実が腐ってしまうくらいなら、必要最低限で全く問題ない。
ところでこの記事もお金を稼ぐことや社会的成功を至上とする人からしたらルサンチマンの負け惜しみのように映ることだろう。
「何をわけの分からないことをゴタゴタ言ってるんだコイツは」と思われるかもしれない。
なぜなら僕は『お金を稼ぐことに興味がないと本音で語ってる人がいて心底驚いた』と言ってた人を現実で知っているから。
僕からすればむしろその世界観の狭さにこそ心底驚いたものだが、人の数だけ世界があるという僕が冒頭に述べた言葉はやはりここでも適応されるのだ。
人それぞれ『成功』の形も『世界』も異なって当然である。
しかし人工的に照らされたライトの存在にきづくことなく、内側から精神を照らす偉大な光を宿そうとしなかったとしたら、もしも脆弱な価値が崩れ去った時に自らが積み上げた安物の成功の下敷きになり朽ち果ててしまうだろう。
僕は本気で願う。
この記事を読んでくれた読者の人が、そういった悲しい結末を辿らないことを。
自らの心と深く対話をしてくれることを。
2024/07/01
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