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『蒲団』感想

『誇る文豪田山花袋』

我々群馬県民にとっては上毛かるたで誰もが一度は耳にするその名前。

田山花袋は明治時代に群馬県の館林(当時の館林は栃木県に属す)に生まれた日本自然主義文学の体現者である。

自然主義文学は写実主義文学(リアリズム文学)の発展により生まれた文学であり『真実』を描くことを一つの目的としている。

19世紀の後半フランスに端を発したこの自然主義文学は、1900年代の日本においてロマン派からの脱却を目指す日本の文学者達を大いに葛藤させることとなった。

「美化に頼りきることなく真実を描くとはどういうことか」

西洋から訪れた新たなる文学の解釈と表現方法に多くの文学者が彷徨する中、田山花袋は日本を驚愕させる衝撃的な作品を世に公開することにより爆発的なエポックメーカーとなった。


文壇はもちろんのこと、文学界に留まることなく当時の日本全体にセンセーションを巻き起こした怪作こそが、今回紹介する『蒲団』である。




ー作品紹介ー


本作は田山花袋本人を投影した中年の主人公『竹中時雄』と密かに時雄から恋情の目を向けられる若く美しい彼の女弟子『横山芳子』そして、その芳子と激しく情熱的な恋を繰り広げる青年田中秀夫らを中心として物語が展開される。

前田晁氏における解題においても「真のイッヒ・ローマンの濫觴」と評されているように本作は田山花袋による一人称視点の私小説であり、物語に記された出来事は彼の人生における史実を基に描かれている。

そしてその描かれ方は露悪的とも取れるほどに自虐的であり、この点こそが日本の文学史において本作が重要な地位を占めることとなった理由である。

「蒲団」の作風を語るうえで無視するわけにはいかない特徴は「時雄の内面世界にのみ存在する彼の情けない姿と外面世界に表出される立派な彼の姿がはっきりと線引きされている」という点であろう。

彼の弟子であるヒロインの芳子からはもちろん、芳子の父や恋敵であるはずの秀夫からも終始『温情なる保護者』や『威厳を持った立派な師』として時雄は認識されており、実はその胸中では若く美しい芳子を暑苦しく舐め回すように視姦しながら彼女との不倫の妄想に耽っているなどとは誰も夢にも思っていない。

自身の中に秘めた肉欲的な情念の一切を隠しきり、遂に彼は知識と分別のある立派な人間としての体裁を世間に保ったまま物語を終えるのである。

読者である我々の眼に暴かれていることを除いては。



ー感想ー

先述した通り、時雄=田山花袋は彼の胸の内を小説として描き世に発表しなければ現実においても「立派な文学の師匠」として芳子のモデルとなった永代美知代からも世間からも高潔な人として評価されたことだろう。

しかし彼は身近な人達や世間から侮蔑の視線を向けられることだけでなく……これは僕の想像に過ぎないが恐らく花袋は下手をすれば自らの元から去り行く人がいることも想像したであろう上で本作を描き切っているのだ。

今の時代を生きる僕からしてみても、落下をしたら奈落行き間違いなしの超高所の崖から崖を飛び渡るような非常に危険極まりない行為であると感じるのだから、現代よりも精神の高潔さが求められていた当時からしたら狂気の沙汰と呼ばれてもおかしくない程の異常な自己開示だったのではないだろうか。

しかし、彼はその狂気を孕んだ勇猛さによって作品を世に送り出したがゆえに明治の日本において当時の文学者達が前人未到であった境地に到達することができたのだ。

僕は今回『蒲団』を読んだことにより自分自身の胸の中に田山花袋のような『危険への挑戦心』が圧倒的に不足してると深く自覚することとなった。

これまで僕も、感じたことや自らの体験などを作品として描いてきたつもりであったが、滑稽とすら感じるほどの中年の悲哀をここまで赤裸々に描写した彼の表現と対話をすると、如何に自分が自分自身の人生を脚色して美味しいところだけを小綺麗に調理してきてしまったのかを考えざるを得なくなった。

また小綺麗でないものに関しても焦げたホルモンのように暑苦しく咆哮することで自身の弱さをコーティングをするような調理方法であったし、とにかく『情けなさ』や周りを巻き込む危険性を孕んだ『自爆』のような行為から逃げてきたと感じる。

これまでの僕の作風を評価してきてくださった人もいるし、僕自身もこれまでの僕の作風には愛と誇りを持っていることは変わらないが、圧倒的に不足していた部分として『自然のまま』を描く勇気が欠けていることを自覚したのだ。

詩とは自らの弱さを曝け出す芸術である。

精神の中心部を微妙に外して、人様に見せられる弱さばかりを晒し続けたとしても、真の弱さや情けなさと向き合わない限りは自らの最奥部には到達できないと改めて確信を得ることができた。

そもそも僕のように人並み外れて抑圧の強い人間は、思い切って勇気を出して精神の壁を発破しようと心の底から思わなければ、自身が有する無意識の領域や精神の奥深くにアプローチすることはできないだろう。
今こそ覚悟を決めて前進する時なのだ。

正直なところ僕にも田山花袋のようなドラマティックで危険な恋愛や、語るに忍びないほどに悍ましい独白だって多々ある。

もちろんそれを表現することで、自分を含めて誰かの心を大きく傷つけてしまうことも想定される。

しかしここにきて誠実に問い直さなければならない。

「毒にも薬にもならない芸術など存在する意味があるのだろうか」

「人を傷つけない表現などあろうものか。それは人の多様性というものを舐めているのではないだろうか」

「芸術表現においてすら自分の精神と目線を合わせなかったら、いつ自分自身と向き合うのか」などなどの疑問を……


芳子のモデルである永代美知代は『蒲団』について後にこう語っている。

「何処も彼処、全部が全部、みんなよくもまあと、呆れ返える程、違って居るけれど、何よりも彼よりも、一番腹立たしく、不平で赧っとして、大事な大事な誇すら忘れて取り乱し、其処いら中引っかき廻したい思いに泣いたのは、芳子の恋人田中秀夫に於ける、竹中時雄氏の描写です」(昭和三十三年七月号『婦人朝日』)

実際のところ田山花袋と永代美知代が師弟関係であったことは真実であったそうだ。

しかし小説とは違い現実では永代美知代から田山花袋への恋が初めにあり、後に美知代が秀夫のモデルとなった男性に恋心が移った頃に花袋が彼女に恋情を抱いたことがきっかけで本作のモチーフとなる事実が産声をあげていったそうだ。

蒲団を執筆しなければ美知代が傷つき怒ることもなかっただろう。

しかし蒲団を執筆しなければ花袋が名声を得ることも、彼の悲しき恋が昇華されることもなかったろう。

そして彼が蒲団を執筆しなければ今回の僕のように本作によって精神を揺さぶられる者も存在しなかったことだろう。


自分が起こした選択が誰にどんな影響を与えるか、世界にどのような変化をもたらすかなど未来になるまで誰にもわからない。

傷つく人もいれば勇気づけられる人もいるし、救われる人もいる。

どうせ定めのない未来であるのならば、少なくとも自分が後悔することのないよう自分自身と深く向き合い、思い切って危険な跳躍をしてみることも大切なのではないだろうか。

現に素晴らしいアーティストというのは、人を別世界に連れ去る魅力を持つアーティストというのは、誰もがその危険な跳躍のエクスタシーを感じているように思う。

芸術を志す人間として僕もこれから、大胆に飛んでみようと思う。

そしてもしこの記事が今の自分の在り方に納得しきれていないアーティスト達の背中を押すことになってくれればなによりも嬉しい。

共に勇敢に戦っていこう。

自分の壁を破れることを信じて。


2024/07/08

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