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迷子の新学期

入学前からホストブラザーのおかげで何人か
同じ高校の子たちとは出会えたものの、
やっぱり現地の高校に入るのは緊張するもので、
始まってしまった・・・といった感じ。

当時私が思った日本の高校と違うのはカウンセラーがいること。
カウンセラーと一緒にどの授業をとるか、何時にランチを取るかを
話して決めてテストの結果などで必要であればクラス替えをする。
なので何組と言ったクラスはないし、担任もいない。

あとは廊下に決められた番号のロッカーがあること。
南京錠はあらかじめ買っておいたのでそこは大丈夫だった。

生徒には顔写真とバーコード付きのカードを首からぶら下げるように
なっており、このカードがないと学校に入ることが基本的に許されない。
あと、ランチの時にバーコードをかざす。
公立高校だったけど、交渉付きのベージュのポロシャツが制服としてあった
ポロシャツは学校指定。ズボンは黒のデニム以外。
ポロシャツの上に上着を着ることは許されておらず、下に長袖を切るか
パーカーをゆるく前から腕だけ通すギャルがいた。

月に何回か、紙のブレスレットを2~3ドルで買えば
私服登校をゆるされる。と言ったシステムがあり、
そのお金は寄付に回されているいいシステムだった。
生徒は自分のきたい好きな服を着て、お金は寄付にまわる。
そういったシステムもとても新鮮だった。


さて、レントゲンを忘れた私は1日遅れで入学、
新学期を迎えての話が講堂であるのにどこにあるかわからず
誰もいない廊下をさまよった。

やっとの思いで見つけた講堂はなんと入口の目の前。
灯台下暗しだった。

どきどきしながら入り、なんの説明をしているかわからないまま、
座って聞いているといつの間にか終わり、私は勇気を出して
隣の席の眼鏡をかけた女の子をランチに誘ってみた。
けど、ことごとく失敗。「なんで一緒にランチしなきゃいけないの」
的なニュアンスだったと思う。友達作りに失敗してはずかしさやら
寂しさやら、日本の高校では留学生は歓迎されていたのに
ここでは全くそんな感じじゃないんだといたーい思い出。

日本の高校でも初日私ボロボロだったな・・・
わ~大丈夫かこれ、やっていけるかなと
メンタルはすでにボロボロ。

どうやって賢い子たちは友達をつくるんだろう、
あ、そっかもともと英語はなせるからか。と
そこに日本人留学生は誰もいないのに勝手に
イメージして比べて傷ついていた。

覚えている限りだけど私がとっていた科目は
アメリカ史、理科、リーディング、日本語、体育、ライティング
パソコンだった。(ライティングは途中からクラス落ちた。)
結果はほとんどの教科落第。

勉強の仕方が本当に下手くそだったし、
アメリカ史の宿題なんて、途中からクラスの子に写させてもらう
勤勉な日本人らしからぬ生徒だった。(勉強は本当に本当に苦手)

どんどんクラスからおいていかれるのが本当に目に見える。
先生とも気まずい。中学の時の塾の先生みたいなことをされたら
本当にしんどいなと思いながら目立たないように、迷惑かけないようにしていた。ペアワークなんて地獄で誰も離せない私と組みたくない。

そりゃそうだわ。なんて思いながらアメリカ史で一緒のクラスだった
日本語クラスを取っている女の子がいつも助けてくれた。
最初はランチにも誘ってくれて嬉しかったし
友だちができた!と喜んでいたけど、彼女の友達二人が
英語を話せない私に嫌悪感を抱いているのが分かった。
最初は良くしてくれていた子も、言葉では言わないけど
態度で分かり、私はまた一人でカフェテリアでランチをとることになった。
ああ泣きそうだ。しんどいな。とおもっていたら、

同じ日本語クラスの中国系の女の子が話しかけてくれた。
「どうして一人で食べているの?一緒にたべようよ!」
それがRとの出会い。Rはもう一人の友達Aと二人でランチを取っていたけど私を誘ってくれた。

また英語を話せない私に飽きて一人になるかもしれないけど
それでもいいやと思い、いつ飽きられるかと思っていたら
Rが私の家に交換留学に行くまでずーっと一緒にいてくれた。

学食にはハンバーガーセットやバッファローチキンをトルティーヤで巻いたものなどの主食にポテトや飲み物を合わせたて250円くらい。
そこから離れた場所にクッキーやスナックを売っている場所もある。
私はそこのチョコチップクッキーをRに教えてもらい、
ドはまりして毎日食べるようになった。
アイスもあるんだよとか恥ずかしいけど小銭の数え方まで
RとAが丁寧になんでも教えてくれた。

しんどいこともあるけれど
受け入れてくれる人たちに時間がたつごとに少しずつ
出会えていった。

私は誰かに誇れるような留学経験をしていない。
能力が高かったわけでも、しなきゃとわかっていても
勉強に力を入れてこなかった。力の入れ方が分からず
どれだけ努力しても重たい教科書を持って帰って一人で
辞書を引きながらやっても解けない問題がたくさんあって、
毎日必死だった。

そんなの当たり前じゃないか、と留学団体からはいわれそう。

それでも途中で投げ出さなかった、逃げ出さなかった。
それがなぜだかきちんとわからなかったけど、本当に意地だったと
思う。できない、失敗とこれ以上自分にレッテルが張られるのはいやだと
思っていた。

でも今は思う。レッテルを張り付けていたのは自分自身だということ。
痛めつけていたのも、必要以上に深読みして責めていたのも誰でもなく
私自身だって。

もしこれを当時のじぶんが気づいたとしても
私は帰らなかったと思う。だって自分の家に帰りたくないんだもの。
寂しくないわけじゃない、違う世界にまだいたい。
やっと自由になれたのにともおもっていた。

それもあきらめなかった理由の一つだ。


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