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美しいあの人

今でこそ物に執着することがほとんどない私だが、中学生の頃に「これは絶対捨てられない」と思いつめていたものがあった。
フランスにいた4歳ごろに、母が作ってくれたクッション。フランス読みで「クッサン」と呼んでいた枕だ。
ヨーロッパ製のつやつやした生地が心地よく、母の手縫いのカバーも愛しかった。手芸が苦手な母の不揃いな縫い目を触っていると、不思議とリラックスして心が落ち着いてくる。
これがないと眠れない…
だから一生大事にしよう。捨てるなんて、言語道断!

一方で製作者である母はそれが捨てたくてたまらなかった。
「もういい加減『ご苦労様』しなさい。詰め物がとびだす度に縫うのが大変だし、綿(わた)を吸い込んだら病気になるわ。生地もすり減ってるし、よだれがついて汚いし…洗濯しても洗濯しても全然白くならないじゃない。10年同じ枕を使っている人なんて聞いたことが無い。ああっ、もう本当に嫌!! 」

当時母はとにかくイライラしていたのだ。
妹の病気、祖母の自宅介護、電車で3時間以上かかる場所に入院している祖父のお見舞いにも行かないといけない。
英語もフランス語もできるのにそれを活かす仕事は田舎にはなく、内気で人嫌いなところがある父は動物と話すことが唯一の癒しで、犬を飼い、猫を飼い、亀を飼い、鳥を飼い、ねずみを飼い、金魚を飼い、カエルの卵まで孵化させたあげく、結局は大方の世話面倒を母に押し付ける…。
そして長女はといえば本ばかり読んで勉強せず、汚い枕に執着している…。

ある朝、私が朝ご飯を食べていると母が外から「やれ、せいせいした」という顔で帰ってきた。
外のお掃除でもしていたのかな…とぼんやり思いつつ制服に着替えに行ったら、ベッドのあの枕がなくなっている。
大きな声で
「クッサンは?」
と聞くと、台所から母の
「捨てた! 捨てました!」
きっぱりした、鋭い声。
私は顔面蒼白になって母のところまで走り
「ダメだよ! どこ?」
「もうゴミ屋さんが持って行った。新しいのを買ってあげるから、ね。今度ジャスコに行こう」
「ジャスコにクッサンはないよ…」
「もっといいのが沢山あるから!!」
「あれよりいいのなんてない…」
気付くと、私の背後で父がおろおろしている。
でも彼は、こういう時は常に母の味方なのだ。
心配はしてくれるけれど、いつも何もしない。何も言わない。
そう、ここでは誰も、私の気持ちなんて分かってくれないんだ…。
私の目からボロっと大きな涙が落ちた…。

と、それを見た途端に父が「あ、俺もう無理なんで…」という感じで玄関に向かっていった。激怒した母が
「何考えてるの?! 拾って来ないで! 」
父の
「いやあれはまだ使える…」
というもごもごした声が聞こえ、あ、そうか、父はゴミの集積所まで行ってくれたんだ…とぼんやり思った。
いつもだとここで母からの強烈な雷が落ちる。
立ち尽くしている私に
「まったくもうわがままばっかり言って!! 毎日毎日、何の進歩もない子なんだから」☜決め台詞1
とか
「いつまで幼稚園児みたいなこと言ってるの!! もう知りません!! これからは全部自分でやりなさい」☜決め台詞2
とか…。

でもこの時は違った。
しばらくの沈黙のあと、母はこれまでに聞いたこともないような低く恐ろしい、絞り出すような声を出したのだ。
「…涙で
…男を
…動かすな!!」
…えっ?!
「お母さんはそういう人は大嫌いです!!」
そういうと猛然と食卓を片付けはじめ、
「いいから、さっさと学校に行きなさい!! 遅れるわよっっ」

田舎道をとぼとぼと歩きながら、私は思った。
クッサンが捨てられなかったのはとりあえず良かった。
でも…どう考えてもさっきの台詞は私に向けられたものじゃないな…。

それからまた数年が経ち、私は高校生になっていた。
うちは基本的に「テレビはNHK以外は視聴禁止」というルールがあったけれど、この頃になると例外の番組もあり(今思えば両親だって民放を観たかったのだろう)中でも黒柳徹子さんの「徹子の部屋」は楽しみにしていたものの1つで、学校が早く終わると母と並んで観ることがあった。

「徹子の部屋」は、オープニングで徹子さんがゲストのファッションチェックをすることが多い。
「まあなんて素敵な御召し物なんでしょう、本当によくお似合いで。後ろも見せて下さる? 一体どこのものなのかしら?」
なんて。
ある時、素敵な女優さんだったか歌手だったか、もうよく覚えていないけれど、高校生から見ても「わぁ!」と思うようなシックでセンスのいいお洋服で登場した方がいらした。
徹子さんが
「まあなんてお洒落な着こなしなんでしょう。小物の使い方も個性的で…」
と褒め
「このストールはご自分でお作りになったそうで、女子美術大学をご卒業なのね? 本当に鮮やかな差し色で…」
パチンっ!!
突然母がテレビの電源を落とした。
「試験もうすぐでしょ。勉強してきなさい」
…えーっ?
「時間がもったいないでしょう!! さっさとしなさいっ」☜高校時代はこればかり言われた
そして忌々しそうに、
「そりゃ女子美ならおしゃれもお手の物よねっっ」

私はしぶしぶ勉強部屋に引き上げつつ、以前の情報と照らし合わせてみる。
このイレギュラーで唐突な感じは以前のあの時と似ている…
つまり…

この後も母の謎の「女子美嫌い、おしゃれ女子嫌い」は散見され、私は確信を深めていく。
少しずつ情報を集め、その女性が「美しく」「小柄」で「コケティッシュ」で「器用」なタイプだったらしい…ということも掴めてきた。
そして長い時間をかけて、私の中に、だんだん「あの人」の像が浮かんでくるようになる。
顔は分からないから、後ろ姿だけれど…。

妹達も「うすうす感じるよね」「本人には言えないけどねえ」と察知していて、その「実はみんなが感づいている」という母の何とも言えない素直な感じは可愛らしかったが、とはいえある意味トラウマなのだろうし、痛々しい話ではあるのだった。

しかしそこからまた数十年…
私も年を重ねるにつれ、考えは変わってくる。
父は、まあいろいろと問題はある人だけれど、一般的に判断すればかなりの優良物件だ。母は結婚してからずっと専業主婦だったことを後悔しているけれど、父が十分に稼いでくれていたから働く必要がなかったとも言えるわけで…。もちろん母の「働きたかった!」という悔しい気持ちも分かるけれど…。

また父はほぼずっと、変わらず母のことが大好きだった(と思う)。
元気だった時も「Mちゃん(母)さえいればいい」とよく言っていたし(これは人嫌いで外出嫌いの内弁慶だったせいもあると思うけれど…)、認知症になった今も母がいないと「どこ? Mちゃんどこ?」と探している(それはそれで面倒なところもあるけれど…)。

だから、結果的には、総合的に判断したら、その男は女子美に持って行ってもらって良かったんじゃない?
大体ちょろっと泣かれてコロッといっちゃうヤツもヤツなんじゃない(目撃していないから状況は分からないけれど)?
と思わなくもない。
第一、そもそも、私が高校生の時点でこの事件はとうに時効を迎えているしね。あと、その人と結婚していたら、私達姉妹はいないよ。
もうさ、いい加減忘れようよ…。

けれど、母はむかしから心の握力がものすごく強い性質なのだ。
怒りの対象は、掴んだら離さない。彼女の怒りはきちんと持続する。
毎朝、新聞を隅から隅まで読んでは社会の不正義に怒る。
選挙に行かない人や「事なかれ主義」にも怒る。
戦争に怒り、戦争に加担する国や人に怒り、貧困を嘆き、格差を助長する政策に憤慨し、環境破壊に苛立ち、環境破壊に加担する企業に腹を立て…。
そしてそれらに対して無力だったり、協力できない自分にも怒り、微力ながらどうしたらいいのかも考える。
妹の病気をバカにした人に怒り、難病を患う人に負担のかかる医療システムに怒り、病気の子どもに理解のない学校に怒り、そしてどうしたらいいのか考え、できる範囲できちきちと実行する。
私のように、一時的には怒っても
「ま、いっか…」
とはならない。

母はいろいろなことをがっちり握りしめるパワーがあり、それは時に周囲を辟易とさせることもあったけれど、しかし実際私達は、彼女の「くっそー!! あいつ絶対許さない!!」という猛烈なエネルギーに支えられてきたところが沢山あったのだ。
そしてその姿勢は、体力の衰えはあるけれど70代後半の今でも変わらない。だからたとえ半世紀という時間が過ぎても、当然のように、女子美の「あの人」への思いも手放さない。

振り返ってみると…母は無駄遣いをしない働き者の主婦だったと思うけれど、強いて言うと…少々洋服を買いすぎる傾向があった。
セールの時期になると、母の新しい服が増えている。
子ども心にも
「体は1つなんだからそんなに要らないのに…」
と思ったが、とにかくいろいろ買う。
母は娘時代、工場勤めの父親の体が弱く、決して裕福な暮らしではなかったという。高校時代から社会運動をしていたから、おしゃれとは本当に縁がなかっただろう。
でも恋に破れ、つまり女子美に持っていかれ、傷つき、恨みながらも一方で
「私にも悪いところがあった」
と思ったのだ。いつものように。
だから文字通り生涯をかけて、いろいろな服を着たり、小物を買ったり、センスが良くなりたいと試行錯誤をしていたのだと思う。
そして不器用なのに枕カバーを作り、セーターやマフラーを編み、孫が出来れば袋物を縫い、器用になる努力もしていた。
手芸に関しては本当にびっくりするくらい下手で適性がなかったので、私はよく「買った方が早い」と茶々をいれ、見かねた父も「そんなに大変なら作らなくていいんだよ…」と言っていたけれど、それでも黙々と手を動かし続け、少しずつ少しずついろいろな物を作れるようになっていった。

ここ数年、私は月に何度か、父の介護ために実家に行く。
そして父が寝て私が東京に帰る前のひととき、夕方の数十分、母と二人で散歩することがある。
母はほんのちょっとした外出でも小綺麗にする癖がついている。
彼女は最近足を怪我したので二人でのんびりのんびり歩いていたら、ご近所の方が声をかけて下さった。
「あら、娘さんわざわざ東京からいらしたの? ご苦労様ねえ」
「いえいえ、いつも両親がお世話になりまして」
「こちらこそよ。本当にいつもお洒落で素敵なお母様ね、これからもよろしくお願いしますね…」

夕陽の中、私の前を歩いていた母がくすくすと笑って振り返る。
まるでずっと私の中にいた幻想の「あの人」が振り返るみたいに…。
そして驚くべきことに…今や「あの人」と母は、もうぴったりと重なっているのだ。振り返ると、あの人の顔は母の顔なのだ。
お洒落でよく笑う、可愛らしいおばあちゃん。年をとってすっかり小柄になって…。

娘は心底呆れている。
そして…感心する。
すごいね。正直、恋敵をずっと恨んでいるなんてほんとにバカみたいだと思っていたけど…、これは執念の勝利ね。
「えっ? 一体何のことかしら?」
涼しい顔をした老婆は、泣きこそしないけれどすっとぼける演技も板につき、最近自分で刺繍したという美しいスカーフを巻いている。

(おわり)


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