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  命令形のように頑なに否定しても、相手の臆する素振りは垣間見えず、首尾よく清羅さんは狐のお面の下で高らかに嘲笑した。

「子が母を憎むのは恋するあまりですよ。辰一君」

 こいつに何か、握られているんだろうか、と抜き打ち検査のように突きつけられると、猛烈な吐き気を催した。僕は知りたくなかった。

 母さんを弄んで、無造作に捨てたあの男を一切、知りたくなかった。こいつはその蓋にしていた、哀しい秘密を木端微塵に打ち砕いたんだ。僕は押し寄せてくる吐き気を堪えながら、幾度もなく身震いをした。こいつがその秘密を教えなかったら、こんな惨状にはならずに済んだ。

 オオムラサキが清羅さんの周囲を火炎に群がる、有毒な蛾のように飛び交っている。名画と誉れのある、日本画のワンシーンのように、オオムラサキは狂喜乱舞する。オオムラサキの混じりけのない、禁色が衣擦れのように戯れ、その色調はまるで、正倉院に奉納された茄子色の切子硝子のように光を放った。

「辰一君こそ、罪を犯したじゃないですか。千夏さんに恋をする、という大罪を。千夏さん、まだ、何人も子供が産めそうですよね。私がもし、千夏さんみたいに綺麗だったら、さっさと再婚するのに」

「清羅さん、君はからかいすぎだよ。世の中には話して、いいことと悪いことがある」

「辰一君は綺麗ですよ。だから、弄ばれちゃったんですよ」

 僕はとっさに後退りをした。砂利の礫が鈍く砕ける、音が聞こえてくるまで。

「違う、お前の嘘だ! 嘘だよ。嘘だ」

 言い返しながら、唐突に僕の父親、という人間がこの場にいれば、僕は殴ってやっていただろう、と暗い脳裏に、鮮明な光線のようによぎった。

 母さんの心を心中まで壊した、あの男を僕は、すぐにでも殴るだろう。それが不可能ならば、この身体に流れる血を抜き取ってやりたかった。

 僕は僕の若さが憎い。憎くて仕方がない。早く大人になりたいわけじゃないのに、この場にいるだけで頭が重くなるし、常態的に虫唾が走るんだ。

「辰一君は綺麗ですよ。見かけだけは。本当に見かけだけは」

 こいつに掌を反すまでなぜ、褒め千切らねばならないのか、見当も尽かない。

 石長比売のように奥山で深く恨み嘆けば、こんな目に遭わないで済んだ筈だった。あれは違う、何かの間違いだ。誰にも分からない。哀しみの価値なんて。先は見えてこない。僕は星となって、潔く散るべきだった。この胸に精鋭な刃は、粛々と征伐してくれるだろう。
 あいつが来る前は、それなりに幸せだった。小さい頃に母さんが台所の隅で、声音を押し殺すように泣いていたとき、主要紙面から放り出された、僕はその泣き姿を黙って見るしかなかった。分からなかった。なぜ、母さんが泣いているのか。なぜ、僕には父さんがいないのか。

 当たり前のレールから外れた僕らには、腹の虫を狩り出すことさえも不可能だった。銀鏡に来れば、そんな精神的な空腹感に惑わされる必要は毛頭ない、と思っていたのに。

「オオムラサキの鱗片って、綺麗ですよね。私はこの羽を砕くのが、何よりの楽しみだったんです。蝶々を採集するときに、何が楽しいかって言ったら、生き得しモノを永久に保存できるのがいいですよ。移ろう花の時期は短いですからね。千夏さんも女の盛りは過ぎていますし」

 狐のお面をかぶったままの清羅さんが突然、笑い出し、けたたましく森の中に、虚ろな喊声が響く。

「ああ、おかしい。すごくおかしいです。ああ、おかしい」
 清羅さんが握っていたオオムラサキの鱗片は、見るも無残に粉々に砕け散った。狐の面をかぶっている清羅さんの見下すような、憎らしい表情も僕は知っていた。

「東京で先輩は何があったんですか」

 逃げろ。とにかく逃げろ。こんな奴と話したらいけない。身を翻し、不安の影と目を閉じる。瞼の裏には何も映らない。

 僕の心は空っぽだ。とにかく、目を閉じ続けるんだ。

 何かに取り憑かれている、と発覚したとき、腰もふらつき、その場にいた雨蛙が、飛ぶのを諦めたように座り込む。咽喉から飛び立とう、とする声はくぐもる。お願いだ、いい加減目が覚めればいい。暗黙の闇の誘惑の山々の路上で蹲っていると、ひっそりと肩を叩かれた。

「探したんだよ。こんなところで何をしているんだ」

 やっと、助けてくれる人がいた、と思った矢先だった。

 頬に峻烈な痛みを覚え、僕は誰かから平手打ちされた、とむざむざと悟った。

「辰一君、なぜ、君は俺の大事な妹を殺めようとしたんだい?」

星神楽 59 業火の紋章|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)

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