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 黒い廊下であの人深く座り込みながら、大声で泣く姿を見て僕は内心、清々しいほど明るかった。
 一時的な鬱憤晴らしにしか過ぎない、と痛すぎるほど、分かっていたけれども。
 その人の声は次第に嗚咽に変わっていった。

 小さい頃、先生に叱られて学校から泣きながら、家路に到着すると、白昼から家に入り浸っていた、この人が意味もなく泣き叫び、僕のほうが呆気に取られ、涙がすぐさま、乾いたのを今でも、鮮明に覚えていた。
 それから、大きくなった僕は黒い叱責を放つしか、残されていなかった。

「男と散々、夜遊びに耽ってきつくなかった? それとも、気持ちが良かった?」
 さらに痛めつけたい、と脳裏には悪童めいた、妄執を毒蛇がカルマを巻くように蠢いた。そのときの僕の表情がどんなに邪まに歪んでいるのか、思い巡らせなかった。

 古びた鏡に覗き込んでも、その姿見は鏡の表面に映った、刹那に移ろう、僕の過去を封印した肖像であって、現在に内在する僕ではない。

「お金がないなら、奨学金でも頼む。お前を当てにしない。当てにしていた、僕が愚かだった。もう、寝るね。風呂は明日の朝にでも入るよ」
 僕が脱衣所から出ようとしたとき、座り込んだ、あの人の手が足首に絡まった。
 その白い細い手は、一向に獲物を仕留めた、大蛇の口のように離れない。
 硬く握られているその一本の細枝のような、手は一瞬、ヒヤッとするほど冷たかった。

 彼岸花が簡単に折れてしまうように。
 僕は振り払おうと片足を大きく揺らし、ささやかな抵抗に翻った。
 白い手は頑なに離されず、掴んだ力はさらに強くなり、しまいにはネイルの剥がれた、爪を向う脛に立て始めた。
 懲りない奴だ。
 訝しげに床を確認すると、恨めしそうに僕を見上げる、あの人の泣き顔があった。

「あんななんか産みたくなかった」
 右足を手放そうと、思い切り力を入れた。
 あの人は弱点を突かれたように手を離し、派手な悲鳴を上げたから、隣まで聞こえたのだろう。
 誰かが玄関から入って来る、鈍い物音が聞こえた。
 伯父さんが心配して、上がり框に来たようだった。
 伯父さんは異様な光景を察知して、床で蹲っている、あの人に詰め寄り、考えられないような優しい手で背中をさすり、声をかけている。

「千夏、大丈夫か? 何かあったのか?」
 あの人は渡された、ティッシュで顔を拭きながら、しゃっくりを上げている。
 一人残された僕はその光景を見て、張り付くような嫌悪感しか、湧かなかった。

 同時に本当にこの二人は禁忌を犯し、耽るような深い仲となったんじゃないか、という甘美な憶測も確信できた。

 なぜなら、あの人は伯父さんに抱きついて、泣き続けていたからだ。
 伯父さんは何も言わず、背中を丁寧に撫でながら、同情の言葉を駄賃に頷いていた。

 不義の結晶を捨て、世間から糾弾されても、今でも兄を思い、兄を恋い慕う。
 衣通姫の悲劇的な説話をこんな場合でも思い出す。

 あの人は一通り泣いたら、立ち上がってよろめきながら、脱衣所のドアを荒々しく閉めた。
「辰一君も後で、ゆっくりと入るといい。伯父さんの家で入ってもいいよ。どうする?」
「伯父さんの家でも寝ていいですか?」
 伯父さんはいいよ、とさみしい目をしたまま、懇切に返事をした。

 伯父さんの家の風呂場でぬるい湯船にわずかにつかると、すぐに上がり、薄暗い脱衣所で背中を拭き、濡れた髪の毛の一本から水滴が落ちた。
 ドライヤーでいつもの倍の時間をかけて、乾かし終えると、勇一が寝ている部屋で床に就いた。

 勇一は安らかな寝顔だった。
 僕もこんな寝顔をしていた時期があったんだろうか、とその寝顔を見ながら、冷然と硝子窓から遠巻きに観察している、僕がいた。

 隠しても僕は何かも、知っているんだよ、と夜の底で物思いに耽りながら。
 苛立ちを物としない、僕は世界の滅亡を掌握する、死神に召される少年となる。……ねえ、お父さん、と僕は小さく呟いた。

星神楽㉟ マトリョシカの接吻|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)


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