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 どんな意味か、後ろめたさをよそにお父さんは心配性だね、と僕は時折、ばれないように呟いた。
 気分が優れないまま、家に帰ると、あの人が腕まくりをして立ちはだかっていた。

 僕は悪い予感のために、目線をわざとらしく、外した。
 上がり框を跳び越すと挨拶もせず、すぐさま、風呂に入る準備をして無言の圧力を放した。

「辰一、話があるの。ちゃんと聞きなさい」
 僕は無視、という抵抗をした。
 あの人はそんな僕の腕を図々しく、掴んだ。
「聞いているの? あんた馬鹿にしているでしょう。あたしには分かるんだから」
 掴まれた腕は意外にも強く、ハッと我に返って、横目を確認すると、あの人が鬼気迫る表情で睨みつけていた。
「馬鹿にはしてない。母さんの勘違いだよ」
「だって、あんたはあたしが作ったご飯を食べないじゃない。いつも、茉莉子さんが作ったご飯ばかり食べて、うちはただの寝床くらいにしか思っていないでしょう。あたしとも話さないし、小さい頃は本当に可愛かったのに何か、損しちゃったわ。これまで、育ててきたことを息子から否定されたみたいで」
 いつも作らないくせに今日は作っていたのか、と内心呆れ返りながら、僕は平静さを取り繕いながら断定した。

「母さんのご飯は食べたくない。ただ、それだけだよ」
「人のお金で食べさせてもらっているのに失礼ね。あんたっていう人間は」
 今夜の晴れ着は図々しく、派手な色合いの緋色のキャミソール姿だった。
 見るに耐えないに尽きる、と正直、憤慨する。
 もうすぐ、三十路を迎える筈なのに、眉をひそめるような見苦しい恰好をせめて、僕の前では避けてほしかった。
「どこを見ているのよ!」
 目線を外したにも関わらず、鈍い金切り声に拍車がかかった。
 誰も見ないよ、お前の醜い裸体は、と僕は冷静に心の中で唾棄した。
 このなめらかな肌に一体、何人の男が食いついたんだろう、と僕は苦虫を噛み潰したように思案を巡らした。

「母親が養育費を負担するのは当然だろう。だから、お前は親になったんだろう。それくらい理解しろよ」
「もう、いいわ。あんたに高校に行かせる、お金なんてないから。中学を卒業したら、働いてね」
「何を言うんだよ。僕は大学だって行きたいんだ。国立大学に行かせるくらいの貯金はあるだろう」
 反論する前にとっさに黒い言葉は、吐き出されていた。
 その人は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
 気まずくなる語気から、暗澹たる状況を僕は過敏に感じ取った。

「大学? まあ、冗談がうまいのね。確かにあんたは頭だけがいいのは認めるわ。あたしはインテリの男は大嫌いなの。行くんだったら、自分で稼いで行きなさい。高校の学費だって馬鹿にならないのに本当に誰に似たのかしら」
 頭の中が真っ白になりながらも、僕はその現実を飲み込めず、というより、今のご時世に高校さえも、進学を断念させる、という選択肢を突き付ける、母親に対して、憤りよりもやるせなさに遭遇し、何が何だか、分からなくなった。

「この前に受けた県の模試で、一番だったんだよ。長友先生の話によれば、このままの成績をキープすれば、医学部だって夢でもないって」
 苦境に立たされた僕の瀬戸際の言い分だった。
 無性に焦りながらも、心のどこかでは過剰に期待している面もあった。
 普通の親ならば、子供が目を見張るような、優秀な成績を獲得すれば、大いに将来を託して惜しみのない支援を施してくれる、と当たり前の愛情を。

「あんた正気なの?」
 その人には不文律さえも効果は皆無だった。
「笑っちゃうわ。あんたって。うちにそんなお金なんてある訳ないでしょうよ。口を開けばしょうもない、見栄ばかりなのね。本当、愚かね。度が過ぎて笑いもしないわ……」
 臆病風に吹かれたような、高笑いにはそれこそ、度が過ぎるように気味悪かった。
 机上の空論に向かって、笑いこけたような、そんな空虚な憫笑。

「医者になってどうするのよ。あんたはあたしの血しか引いていないのに」
 ここまでこの人が世間知とずれているとは、想像の域を遥かに超越していた。
 僕はこの人の自分自身の価値観にそぐわない、非常識さえも末恐ろしくなり、ただ当たり前の期待さえも圧倒的に打ち砕かれた。
 僕の中の常識が荒波にでも揉まれた、砂上の楼閣のように崩れ落ちた。
「何、嫌そうに見ているのよ。何か不満でもあるのならちゃんと言いなさい」
 耐えきれないのか、僕は壮絶な試練に見舞われているんだ。
 鼓舞しながら、繰り言を述べるまい、と適正な志望動機を述べた。
「もし、医者になれたら、銀鏡で診療所も開けるだろう。過疎地域での医療体制はただでさえ、逼迫しているんだ。その過酷な現場に携われたら、伯父さんたちも含む、銀鏡の人たちに恩返しにでもなれるか、と思うんだよ」
 湿っているはずの唇がひりひり、と冷たくなっているのに、下を小さく動かしながら、僕は気付かされた。
「情けないわね」
 その人は僕の未来の地図上に、汚泥を塗るような、見事な苦笑をした。
「あんたみたいな考えている男がいるから、世の中おかしくなるんだわ。医者になりたいならばそれに見合う、家庭を選ぶのが落ちね。東京の高級マンションにでも、行ってらっしゃい」
 堪忍袋の緒が切れるように、僕の心を編み出す、糸もいつ何時、プツンと切れても、おかしくはなかった。
 悔しさのバネを抑制し、その人に対して、どんな妥当な揚げ足取りで責めれば、仕返しの効果が絶大なのか、瞬時に計算する。

 僕は敵対する、思想を持ち合わせた人間に対して、どう、冷たい言葉の刃先を突き付ければ、相手が深く動揺するか、企むのが悲しいことに苦手だった。
 喧嘩腰に遭ったときは大抵、僕以外のグループの人間は相手の方に靡いて、僕は荒野に抗う、一匹狼だった。

「いつも飲んでいるお酒を断てば、いいじゃないか。あと、東京にいたときにホストに貢いだ金の残りと、夜の仕事で稼いだ金があるじゃないか」
 言い過ぎたか、と思いつつも、これくらいは必要だ、とあたふたするのを軽く侮り、思考回路を停止しながら、立ちはだかるとあの人の血相が変わったのを確認した。
 ブラジャーのホックが不意打ちのはずみで、外れそうになるまで、あの人は小刻みに震え出し、幼子が親に叱られて、泣きべそをかいたように泣きじゃくった。
「あんなたにそんな風に言われるなんて思ってもみなかったわ」

星神楽㉞ 黒い廊下|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)


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