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放っておいてよいすなわち捨てて切り離してもよい努力ができる愛すべきバカ

言葉に責任の無いバカ
 こいつは本当に多い。自分の口で吐いた言葉すら守れずに生きていて何が楽しいのかとさえ思う。他人の約束云々の前に自分でやると言ったことを平気で辞められるような責任の無さが信じがたい。もしそれが他人と共にやることであればそれは損害でしかない。やると当然期待させているわけであって、それを裏切ることでまず精神的に損害を与える。その次にやらなかった時点からやらなかったと判明するまでの間に時間差があり、プロジェクトが止まるという具体的な損害も与えられる。邪魔したいのかと思いたくなるほどにこのバカは見捨てられる。こいつらの人生が心配になって仕方がないのだが、そんなやつにかまっている暇などない。そんなやつは知らん。適当にほどよくつらくてほどよく楽しい人生をせいぜい謳歌すればよい。誰にどの様な影響を与えているかなど思いもよらないのだろう。

甘ったれバカ
 こいつも多い。役割と責任ということを放棄して対価だけをもらおうというもはや犯罪者級に質が悪い。この甘ったれバカは一見まともな面して仕事や学業をしているが、その質が極めて低いことが特徴。その挙句についていく覚悟もないくせに偉そうに大人のふりして大人に近づいては音沙汰もなく離れていく。更には自分で調べ、学び、経験することもせずに適当な解説の解説を数分足らず眺めただけで全てわかったような顔をして疲労する。話にもならないバカ。そういうやつがはびこっているのがスタートアップであり金持ちの道楽の上で踊る人形。問題が無いところにこれは問題だと言ってうそぶいて回り、お金を出してもらい、バカ騒ぎをして踊っているだけのバカ。

権威主義バカ
 一番わかりやすい例は過去の知識人の動画、その解説動画のコメントに現れる「この人の言っていた通りになってしまった」というバカ。このバカに責任があるという明確な事実を横に置いて権威ある偉人に乗っかって気持ちよくなっているだけのバカ。権威を求めるバカも多い。今風に言えばそれはブランド化。自己ブランディングとポジショニングにのみ文字通り馬か鹿のように突き進んでいき、質が極めて低いサービスやプロダクトを平気で提供し、またその言説は常に権威があると認められている数字の引用と短絡的で使いまわされたことばかりで他人の時間を奪うバカ。より悪いのはそれを広め、象徴的アイコンたる存在として君臨し、バカがバカを呼ぶ社会を創り出しているバカ。

被害妄想バカ
 こいつの一番面白いところは前項のバカによる批判はありがたく意見として拝受し、そうではない人間の言説や、鋭い言葉には簡単に傷つき、酷い場合は当人を攻撃することで自己防衛に走る。とりわけ直接の知人に対して「なぜ直接言ってくれないのか」などと問いただす始末。そんなバカのことを個人攻撃するほど暇な人間はいないのに自分が可愛いゆえに自分がかまってもらえていると勘違いし、それが被害妄想へと繋がり、簡単に他人の時間を奪って平気な顔をして攻撃している。このようなバカは弱そうにするので味方が増えやすく、質が悪い。バカをかまっている暇などないというのに。

伝える力バカ
 伝えることばかり偏重されて久しい中で産まれているバカがいる。第一の特徴は理解力、その前提となる知識が極めて少ないことと、それ以上に文脈を読み取り他者をおもんばかる力、分かりやすく言えば聴く力が欠けきっているバカだ。表層的な知識は十分未満の動画で得たことにできるため、もうそのことを分かった、理解したということに本人の中でなっていることが極めてバカをバカたらしめている。身を置く社会活動ひとつとってもそう。どこかで得た場当たり的な知識とかつての経験を持って伝えることばかりに注力し、最も肝心な現場には年に多くて一桁回現れるだけだ。全く状況が変化しない現場であればそれでいい。そんな現場あるなら見せてみろバカ。啓蒙活動などと嘯いた名前を付けて伝えることに終始している。代表たる人間がもう自分は現場のことはわからないなどと平気で言う。現場の相手からしたらもう見捨てられたということになるなんてこを想像もせずに。ただのヘッドカウント、被益者その一として数えられる存在になった人のことなど理解をせずに、伝えるために使いたいときに顔と名前と人生の悲惨な物語だけを切り取られていくその人間のことを理解などせずにバカは騒ぐ。

短絡思考バカ
 このバカは前項と近しい。伝えるためにシンプルにすることは時に有効で、当然必要な場面は多々ある。しかしそれを自分の思考にまで持ち込むバカがいる。わかりやすい例は何かを否定する姿勢だ。否定そのものは非常に重要なことではあるが、その際に、そのものを簡単に否定する。老人が多いからだめだ。カーストがだめだ。イギリスがだめだ。日本はもうだめだ。若者はだめだ。会社はだめだ。起業はだめだ。学歴社会はだめだ。何でもかんでも一色でまとめてダメだとしている。その逆もそうで、これからは起業だ。アメリカだ。インドだ。アフリカだ。そう言った言説も同様だ。ポジショニングのためならまだしも、それを自分の思考まで浸食させてバカになってどうするというのか。中学生でできる因数分解や集合の概念をすっぽりと忘れて思考を放棄するバカがたくさんいる。

想像力の無いバカ
 こいつは社会活動と呼ばれる活動をしている人間に多いバカ。社会活動というからには絶望的で眼をそむけたくなるような事実がある現場と向き合って解決を目指すべく活動する者であるはずだが、そいつはただのいいこちゃんでいたいだけのバカ。そういうやつに限って他人が稼いだ金を盗人猛々しく集め、とりあえず良さそうなことに使う。その判断は極めて適当で、見た目がよく、数が多く、よりお金が集まりそうなことをし、それを使ってまたお金を巻き上げるバカ。もっと悪いのはそれによって「これでお金を集められる」と世の中に伝えるという腐った思考停止寄付者を増やす活動を全く想像もせずに増やしまくって平気でいるバカでもあるということ。さらに国の助成金などを取る場合に必ずリスクを過小評価して書いて申請する。それも同じ流れを創る。審査するバカは現場のことなど知らないバカであり、それに対してリスクを事実ベースで伝えないことはもはや世界を悪くしたいのかと思う。既得権益者から金を盗るにせよそんなやり方で奪っていることはただの既存の世界への迎合であり、ただのイエスマンなバカ。そういうバカは経済合理性とのみ結び付けて社会の善し悪しを“客観的データ”とともに語っている。例えば成長。成長速度というのはその伸びしろにも外部環境にも依拠するはずだが、なぜか一側面、例えば民主主義国家は云々というくだらないひと括りの議論を大金をもらってしている。自分の恣意で選んだ結論以外想像できなくっなっている思考停止バカだ。

今日死ぬかの様に生きろというバカ
 今日死ぬことができたらどれほどラクなことか。死にたいと思う時、そう思う。死にたいの叫びは生きたいの裏返しだというバカもいるが、死にたいの叫びは圧倒的に死にたいであり、その想いを言葉に出せていることは相当の覚悟まで至ってしまっているということ。死ぬこと以外かすり傷などという戯言もバカは嬉しそうに受け入れる。死ぬこと以外に軽傷・重傷を重ねていった結果死に至るなどということも想像できずに。生きること自体が苦しく、生きているだけで辛いんだからせめて肩の力を抜ける時は抜いて、でもそれも無理しないでよいとそういいながらただ横にいて何も言葉を使わなくても手を重ね、抱きしめてあげることができれば今日死んだラクだという気持ちが少しだけ紛らわすことができる。そしてそれがたまたま運よく続けば何とか寿命までたどり着くことができる。

 放置するバカ
 自殺と自殺未遂、その間の2つの死。その度に湧き上がる自責の念と後悔と反省、悲しみと絶望。もはや自分が死神なのではないかというバカげた発送すら自然と出てきてしまう始末。その先に、もはや私は誰とも関わってはいけないのではないかという感覚になる。一方でムスリムだからと何も役所の手続きが通らず、うまくいきそうになるとヒンドゥー至上主義者にリンチされた友人の相談や他人に騙されて二十日間ふさぎ込んだという教育活動をする友人からの相談に乗る。自殺や自殺未遂、早すぎる急死が起きた時にまわりの友人が私に連絡をし、悲しみを分かち合う。そうなってくると少しばかり私にも生きて周りの人間と関わっておかないといけないのだろうか。もう少し傲慢になれば、何か役に立てるのだろうかという気さえしてくる。自分の人生などとうに興味はなく、私を殺して嬉しく想う、得をする、快感を覚える人間がいるなら喜んで差し出す。ただ、残念ながらまだ隣にいて話を聞き、温かい握手をし、挨拶がわりの抱擁をすることで多少はまだ生きていきたい前向きな人たちの約に立っているようで、私はまだそういう人たちを放置できるほどバカになりきれていない。

あとがき
 それにしても何か強い負荷がかかるたびに強烈な頭痛が不定期に訪れ、頭の中で何か線が一本切れるようなこの感覚はやはり防衛本能というものが人間には備わっており、それ以上考える前に停止させ、守っているのだろうと思う。 
 人は争う。人間も争う。人間はいつも複数形なのに個人として社会に生きようとする。だから争う。スポーツなどのエンターテイメントに昇華したつもりになっているが、実際に暴力的なことは何度も起きている。どちらが勝ったか負けたかなど心底どうでもよく、争わないで欲しいと感じてしまう。そんな気持ちで生きていると当然疎外されていく。オリンピックやワールドカップなどでは必ず応援するのが当たり前のようになっている。それをしないでいると異なるおかしな人間に簡単になることができる。それはそれでいいのだが。
 ある人に聞かれた「仮に目の前にお前のことを殺したい人間がいる時にどうするのか?」と。私は胸を張って一点の曇りもなく応えた「喜んで差し出すが、先に理由と背景を聴く」と。その人をできれば犯罪者にはしたくない。犯罪者となってしまうと生きていくことが大変だろうから、もしその人を犯罪者にしなくてもその人の求めるものを私が提供できるのであるならば、私は喜んで差し出す。仮にその様なものはなく、単純に殺すことでつかの間でも喜び覚えられたり、苦悩を忘れられたりするという事情があるのなら、それでもまた私は同様に命を差し出す。こんな抱えていても仕方がないただの一つの命、地球上の一生命体に過ぎない個体が、つかの間でも誰かのためになるのであれば、それで私を殺したその人がその瞬間だけでも前向きに生きていけることができるのであれば、私は喜んでこの命を差し出す。むしろそれは、こんなにもつらい生にとって至上の喜びではないだろうか。そう考える。
 そのように返答をするとその質問者はいう「あなたはもう悟りを開いている」と。いよいよもって疎外の一言をもらった。その一言は、あなたはもう私たちとは異なる場所にいる存在であってもはや語り合うことはできないという言葉に等しく感じられる。十の頃より孤独を感じながら生きていていくら慣れているとはいえ、直接の疎外の一言はいまだに苦しさを覚える。私の精神力は所詮その程度までにしか「悟って」などいないのだろう。いや。全く悟ってなどいない。そもそも悟った状態の定義すらもたない私にそんな状態に近づいたと感じる知能など備わってはいない。
 人類というのは誰もが争うということらしい。私には分からない。私の持っているいかなるものでも、この身体も含めてすべてのものも、誰にでもいつでも差し出したいと思っている。その反面で、誰かの人生の邪魔はしたくない、できることならだれとも一生関わることなく生命を終えることができればどれだけ好ましいかと常々思う。
 ただ、幸運で不幸なことに、私はまだ憤りを感じることが一つだけある。産まれた環境や今いる環境が直接の原因となっていかなる目標に対しても努力することができない人間の存在を私が許していることだ。私が怒っているのは決してその状況そのものではなく、その状況を放置し続けている私自身に対してである。
 この状況が無くなることが先か、私の寿命が尽きることが先か、はたまた狂人となるのが先か、自死するのが先か、ある意味ではその様な内面における競争をまた私もしているのだろう。争わないと生きていけないらしいバカな人間として。子供の笑顔をみたいわけでも誰かの夢を叶えたいわけでも全くない。ただ絶望に打ちひしがれたまま死ななければいけない人間など誰もいないでいて欲しいと思う一人の小さなバカとして。人類皆兄弟などという言葉が有名だが、私に言わせれば人類みな私である。
 関わった人間もそうではない人間もすべて自ら命を絶つことなど無く、できることなら健康で元気に辛くも時に嬉しい人生を歩んで行ってほしいと切に願う。ここに記したことなどすべてどうでもいいのだが。

 愛について

 愛とは何か。それは自分と異なる生命に対して、自分と同等以上に敬い、慈しみ、手を、言葉を差し伸べる心持ちであり、愛するとはそれらを行動として実行すること。少なくとも人間であれば愛することができないという人は存在しないし愛される資格がないという人も存在しない。ではなぜ愛が永遠のテーマなどと呼ばれるのか。それは自分が一番大切だからである。自分以外の生命に対して愛の感情を抱いている自分が一番大切である。とはいえそれはあくまで事実としての自分の内実であって、自分と同等以上に想い行動していると感じさせることは可能だ。当然今の時間は自分のものであって、それを使って慮る連絡をしたり、側にいて温かく楽しく、優しく哀らしい時間を共にすることは十分に相手に愛されていると感じさせることができる。ただ、その時間の連続が、自分が一番である以上難しいのだろう。

 愛することに近しい形態として、大事にするという行動がある。その発露はほとんど同じなのだが、異なるのは、大事にすることによって、自分の影響力を弱めたいと感じ、避けるという愛するとは反対の行動をとることがあるという点。相手はこの行為によって裏切られた、飽きられた、愛されていないと感じる。それによって終わる関係性であればこの大事にしたい自分にとっては都合がよい。与える影響を少なくし、相手の幸福を自分抜きで願い続けるという行為となる。

 大事にしているけど愛しているわけではないということは両立するのだろう。

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