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今でも忘れられないS先生の優しさ


こんにちは

引っ越し完了でほっとしているアラ還のcandy@です。

学校の夏休みも終わって少し経ちましたね。

今日は私の小学5年生の夏休みの忘れられない思い出を書いてみたいと思います。(50年近くも昔の話です)

読んでくださるとうれしいです。


私の小学生時代の夏休みの思い出といえば楽しいことばかりではない。

夏休みの宿題、課題や自由研究や工作など苦手なオマケもちゃんとついてきたから。

私の親は子供の夏休みの宿題を手伝ってくれるような人ではなかったから
(本来はそれが当たり前なのだが)

私の夏休みの課題の提出物はそれなりに子供ができる範囲のクオリティだった。

『それってお父さんが作ったやろ』みたいな木工細工や
『それお母さんがしたん違うん』みたいな出来映えのエプロン
はたまた小学生が考えつかないような理科研究など

そんなキラキラした作品の中で、私の作った地味な貯金箱や

なんの変哲もない田舎の海の絵なんかは提出するのも恥ずかしかった。

提出する時、いつも肩身の狭い思いを子供ながらに感じていたのだ。


あの小学5年生の夏休みの課題以外は


私の小学5年生の担任の先生は女の先生だった。

ショートカットで長身で快活な先生はたぶん30代の前半だったような気がする。

”名前はS先生”


そのS先生のモットーは

『伸びよ伸びよグングン伸びよ』で


女の先生だったけどいつもジャージを着ていて、子供たちと一緒になって運動場で走り回って遊んでくれたり

ちょっとハスキーな声で叱る時はちゃんと叱ってくれる

そんな明るくて優しい先生だった。


S先生はおとなしくてあまり目立たない私のような生徒のこともとてもよく見てくれていたと今になって思う。

おとなしい子供にほど、ちょっとした変化によく気づいてくれて声かけしてくれたS先生。

『今日は挨拶が元気よかったね!』とか

好き嫌いが多くて給食が苦手だった私に

『今日の給食は嫌いなものまで食べれたね』とか

何気ない優しい言葉に安心した。


S先生が担任になる5年生までは、いつも三者懇談では担任の先生から

『もう少し発表力をつけてくれたら』とか『積極性を出したらいいのにね』と言われていた内向的な私。

ハッキリした性格の母はそれを担任の先生から指摘されるたびに

『家では元気で明るいんですけどね〜』と言い返していた。(笑)

そう

私は内弁慶だった

家ではうるさいくらいおしゃべりしたり、4歳下の弟も意地悪したりしては泣かしてたのに

外に出るとたちまちおとなしい子になってしまう。


夏休みに入る前、5年生の1学期が終わろうとしていたS先生の懇談で

私が”ちゃんとハキハキと手を挙げて発表しているのか” 学校での様子をたずねる母に

『Eちゃん(私のことです)はみんなより大人なんです。だから答えがわかっていても恥ずかしさが出てみんなの前では発表しないだけ、ちゃんと自分の意見は持っているから大丈夫。』

と母に言ってくれた。

私は「今日はお母さんから注意されないな」と心の中で喜んでた。

そしてS先生のことがますます大好きになった。



それから夏休みになり、自由課題を何にしようか考えた私は

もちろんその年も親は宿題を手助けなんてする気も無いし、私も何をするか相談もしなかった

何を思ったか毎日日記を書くことにした。

今でも覚えているが水森亜土さんのイラストがついた黄色い表紙のかわいいノートに

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毎日1ページ、夏休みに起こった出来事を書いた。

亜土ちゃんの可愛さが伝わればと思ってこちらの画像をお借りしました。


そして必ず日記の最後には下手だけど少し簡単な絵も描いていた。


夏休みと言ってもそんなに毎日いろんなイベントや楽しいことが起こるわけでもない。

だんだん書くことがなくなってきた私は例えば

『今日はとても暑い1日でした。

お父さんが仕事から帰ってきた時にビールをついであげました。

お父さんはおいしそうにビールを飲みました。』

そんなことまで日記に書いて父にビールを注いでいる絵を描いたりした。


なんだかんだと40日近く、なんとか毎日1日も欠かさず日記を書き続けて(途中で書くのが嫌になってやめたいと何度も思ったけれども、だからと言って何か他にできることもなく・・・)

夏休みも最終日になった。

普通なら最後の日をドラマチックに書き上げて

少しくらい過剰な演出をして締めくくれば達成感も味わえて

なおかつ、先生の評価も上がると計算しそうなのだが

子供の私はそんなことまで気が回らない。

私はなぜかその夏休みの最終日には本当に何も書くことがなくなったようだった。

そして

「今日は特に何もなし」とだけ書いて

毎日描いていた挿し絵も描かないでそのままS先生に提出したのだった。



新学期が始まり、いつものようにクラスの生徒たちがすごい作品を提出している中で私は一冊の日記帳だけをそっと先生の机に置いた。

その時はやっぱり肩身が狭かった・・・


2学期が始まって少しした時に私は放課後にS先生から職員室に呼ばれて行った。

職員室に入る時、他のクラスの女の先生に

『S先生がとても褒めていたよ、あなたの夏休みの日記を』とニコニコしながら言われた。

私がキョトンとしていると

S先生が私の日記を満面の笑みで手渡してくれて

「毎日本当に頑張ったね!

こんな素敵な日記、先生初めて読んだよ

先生も一緒にEちゃんの夏休みを楽しませてもらったよ。』

職員室に響き渡るような大きな声で褒めてくれたのだ。

本当のことを言うとそんなに文章力もなかった11歳の私の文章をそんなに褒めてくれるなんてと少し変な気持ちもあったと思う。

(大袈裟な気がしてちょっと恥ずかしかったけど、うれしかった。)


家に帰って母に先生から褒められたその話を得意気に話して聞かせた私。

そのあとで自分の部屋でその日記をぱらぱらめくると

私が書いた日記のすべてのページにいろんな色のラッションペンで先生のコメントがびっしり書かれていて私はびっくりした。



それはただのノートの日記帳が色とりどりの宝石のようにカラフルに彩られたように見えたから


そして夏休みの最後の日のページ


『今日は特に何もなし』

と書いたその下に

『Eちゃん、そんな日もあるよね、お疲れさま!』

と先生のコメントが書かれていて

そのコメントの下には

亜土ちゃんのようなかわいい顔をした私が、これまたお姫様が眠るようなフワフワのベッドの中でニコニコしながら寝ている姿のかわいいイラストを描き加えてくれていたのだ。


(実際は私は布団で寝ていましたが・・・)


S先生からのたくさんの温かいメッセージをもらって私はその時初めて自分の夏休みの課題を誇らしく思えたはず

もしかしたら親や大人の意見や手が少しも加わっていなかった11歳の私が書いた日記を先生は純粋に感動してくれたのかもしれない。


そんな素敵な担任のS先生と出会えたのに


その年の二学期の終わりに私は引っ越ししてS先生とはお別れしてしまった。

これまた急な展開なんですが、私の両親は子供の学期途中なんて全然考えない人たちで気に入った家を見つけたとかで年内に引っ越ししたのでした。(苦笑)


残念なことにその日記は今ではどこにあるのかわからない。

でも50年近く経っても最後のページに書かれたS先生の文字と絵は心に刻まれている。

S先生からはこれ以外にも転校するときに素敵な贈り物をいただいた。

そしてその贈り物が今の私に大きな影響を与えてくれたと信じている。

その話はまたの機会にお話しできればと思う。


ここまで読んでくださりありがとうございました。

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