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【オッペンハイマー早く観たいぜ読書】「なぜ原爆が悪ではないのか アメリカの核意識」を読んで、アメリカ人が核兵器をなんで軽く考えるのかについてちょっと分かったような気がするのと、日本人としての核兵器の捉え方についても考えた

クリストファー・ノーラン監督の映画「オッペンハイマー」の日本公開が遂に3/29に決定しましたが、公開された際により楽しめるよう色々と勉強するための読書(略して『オッペンハイマー早く観たいぜ読書』)をすることにして、三冊目を先日読み終わりました。

三冊目は「なぜ原爆が悪ではないのか アメリカの核意識」(著:宮本ゆき)です。

アメリカ人と日本人では核兵器への意識が全然違う…というのは、何となく言われていることなので、多分そうなんだろうなと思っていました。

しかし、どう違うのか、そして、何故違うのかについては「原爆が太平洋戦争を終わらせたというのと、そのせいで日本の民間人を何十万人も死なせてしまった言い訳的なものも有るんだろうな」という程度の理解でした。

でも、この本を読んでそんな簡単な話ではなさそう、ということが何となくわかりました。

著者の宮本さんはアメリカのシカゴにあるデューポール大学というところで15年近く原爆や核についての倫理学の講義をされている広島出身の方です。宮本さんは授業の一環で広島や長崎の被爆者の方をアメリカに招き、アメリカの学生さんたちに被爆体験を語ってもらうそうなのですが、その時の反応が予想外のものなのだそうです。

それは「生き延びて、その悲惨な話を我々と共有してくれるとは、なんとあなたは強い人なのでしょう!尊敬します!」といったもの…(P.36)

こういう想定外の反応が出てくるのはなぜなのか……

宮本さんはその理由を「彼らがそれまで慣れ親しんできた物語のパターン、特に戦争体験の語りの型が根本的に違う、というところに根ざしていると思われます」と述べています。

アメリカ人が慣れ親しんできた核兵器や戦争についての物語のパターンはどんなものなのか。どのようにして、そんな型やパターンが形成されてきたのか。そして、その上でどのようにアメリカ人に核兵器の悲惨さを理解してもらうのか、それらを述べたのがこの本です。私が読んだ限り、概要としては以下の通り。

①アメリカには国家間戦争で子供が被害を受けるという話が無い(無いことは無いと思うのですが、多分、あまりピンとこない)

②「原爆に被爆し、その後、後遺症で苦しんだ」という物語は、「悲惨」というものではなく、「困難を乗り越えて生還しそれを物語ってくれる立派な人」の物語になってしまう。

③アメリカ人には「放射能でパワーアップ」というイメージが有る。彼ら彼女らにとって核兵器とは「力・破壊」であり、その後の放射能の後遺症などについては殆ど理解が無い。「力・破壊」なので、きちんと「自分たちがコントロールしないといけない」というイメージを持っている。

④アメリカ人は軍隊の社会的地位が日本より高く身近で信頼できる存在と考えている。また、軍隊が貧困のセーフティネットとしての役割を果たしていたりしているので、軍隊について否定の言葉を口にするのが難しく、その流れで、「自衛の武器」である核兵器については否定の言葉を口にしにくい。

⑤核物質のずさんな管理や1000回以上の核実験のため、核兵器の製造過程で多くのアメリカ人が実は「被爆」している。しかし、上記の通り、軍の行うことに否定の言葉を述べづらい状況が有る。

上に述べたものの他に宮本さんは「ジェンダー化された原子力」と章を一つ設けて、アメリカのジェンダー規範が原子力や核兵器のイメージに大きな影響を及ぼしている可能性があるという興味深い説をお述べられていますが、この点については、男の私からはあまり論ずることはしないようにしましょう。

上記①~⑤によるとアメリカでは核兵器についての認識「核兵器は我々を守ってくれる軍隊が運用しているものすごい兵器。放射能の後遺症?なんのことですか?」という感じのようです。

本だけを読むとほんまかいな、と思うのですが、映画とかでの核兵器や戦争の描かれ方などを観ると個人的にアメリカ人は戦争や核兵器についてこんな風に思っているんやろうな、と納得できる部分が正直有ります。

また、丁度、この本を読んでいる時に日本映画の「ゴジラ−1.0」が全米公開されて、大ヒットしました。その際、アメリカの人たちがこの映画を評価している理由として「戦争でPTSDに陥った主人公(神木隆之介くん)たちが試練を乗り越えて復活する物語」として観ているからだ、というニュースか何かの記事を読みました

また「ゴジラ」はアメリカでも大人気のキャラですが、それはアメリカ人は「放射能を浴びてパワーアップしたモンスター」としてゴジラを観ているのでは、とも思いました(なお、日本人の私から観て「ゴジラ-1.0」はそういうことを言っている映画ではないと思っています)

さて上記の①〜⑤については、「どうして、こうなるまで放っておいたんだ…」としか言いようが無いのですが、この本を読んで私が思ったのは、アメリカの人はアメリカの人なりに何十年も「核兵器」というものに付き合ってきたんだろうな、ということです。

核兵器は、第二次大戦が終了してソ連がとの冷戦が続く間に大量に作られ続けました。我々日本人は国土に2回しか核兵器を使用されていませんが、アメリカ人は核兵器製造の過程で、1000回以上の核実験行っている、つまり、核兵器を1000回以上自国の領土内で使用しているのですから、とんでもないことだと思います。

ずっと自分が強くないといつ攻められて負けるか分からない……それが真実であったのか虚偽であったのかは別として、そういう考えによって支配されていた「冷戦」と呼ばれる戦争をアメリカとソ連は戦っていました。その「冷戦」を生き抜くための一つの手段がアメリカ人にとっては強い軍隊であり、そしてその強さを担保する「核兵器」だったのだと思います。

そういった点で、ある意味、アメリカ人にとっては「軍隊」と「核兵器」は我々日本人よりも「身近」なものであり、言って見れば「常に一緒に暮らさないといけない存在」だったのだと思います。

常に一緒に暮らすとは、同時に「常にどう接するか考えなければならない」ということかと思います。

我々日本人はアメリカ人があまりにも核兵器について深刻に考えないことに時々、ショックを受けますが、身近にいる存在にめちゃくちゃにビビりながら日々を過ごすこは、精神的にかなりキツいことと思います。

ドストエフスキーの「悪霊」という小説にこんな例え話が出てきます。

大きなアパートの建物ほどもある大きな石が宙に吊るしてあって、あなたはその下にいる。

もしもそれが落ちてきたら痛いどころの話では無いだろう。

でも、もし実際にはそこに立ったとしたら、石がぶら下がっている間、あなたはさぞ痛いだろうと思って、ひどく怖がるだろう。

石の下に立つだけでは痛みが無いはずなのに、どんな立派な人でも、さぞ痛いだろうと怖がる……

そして、その例え話をした登場人物は、その例え話を踏まえて神の存在についてこう語ります。

「神はいないが、神はいるんです。石に痛みはないが、石からの恐怖には痛みがある。神は死の恐怖の痛みですよ。痛みと恐怖に打ちかつものが、みずから神になる。そのとき新しい生が、新しい人間が、新しいいっさいが生まれる…」(新潮文庫・ドストエフスキー「悪霊」第一部第三章8)

アメリカの人たちは。核兵器を「深刻」ではなく「浅く」「軽く」考えることで痛みと恐怖に打ちかとうとしたのではないか。

大きな石(核兵器)が落ちてくる“かもしれない”という痛みから逃れるために、つまり、「精神の安定を保つため」に「防衛策」として「核兵器」を軽く考えているのではないか。それは意識的ではなく、無意識にそうなったもののはずですが、そんな風に捉えることも出来るのではないか、と私は本を読んで思いました。

映画の「オッペンハイマー」が公開された時、同じ時期に公開されていた「バービー」の映画とポスターを合体させて楽しむ遊びがネットで問題になりましたが、我々から見ると「悪ふざけ」にしか見えない行為もアメリカ人の無意識の精神の防衛策の一つの結果と考えると、ちょっと、見方が変わります。

アメリカ人は「核兵器」と一緒に暮らしていくために、心の有り様について何十年もかけて(無意識に)学んでいったのだと思います。それはアメリカ人にとっては精神の安定の為であり、「新しい人間」になるための一種の「努力」だったのだと思います。私にはそれはドストエフスキーの小説で書かれた「神になる」のではなく、まるで、悪魔との契約のように思えました。多分、「狂気の沙汰」と言っても良いのでしょう。

更に別の観点ですが、日本人とアメリカ人の核兵器についてのイメージは、「時間軸の部分で違う」と言うことが出来るのではないかとも思いました。

我々日本人にとって「核兵器」とは1945年の8月に投下されたものと言うイメージが強いものですが、アメリカ人にとっては、第二次世界大戦の後の冷戦の時のイメージが強いのではないでしょうか。

我々にとっての1945年8月6日と9日は「太平洋戦争の終わり」のイメージが強いですが、アメリカの人たちにとっては核兵器という「痛み」と付き合わざるを得ない「冷戦の始まり」なのではないか。オジサンがスナックのカラオケで、「私にはスタートだったの。貴方にはゴールでも」とよく歌っていますが、そんな感じです。

そして、その点で、私たち日本人もアメリカ人と違って核兵器のことを深刻に考えているか、というと、そういう訳ではないとも考えました。

たとえば、皆さんは広島と長崎に原爆が投下された日時をソラで言えるでしょうか?

私は出身は関西ですが、今、長崎県に住んでいます。長崎に来て結構驚いたのですが、長崎県民は広島と長崎に原爆が投下された時間まで、普通に言うことが出来ます。私は原爆を投下された日は知っていますが、時間までは言えませんでした。

長崎で日々暮らしていると「原爆」関連のニュースはよく流れますし、街中には原爆の被害について述べた説明の碑みたいなものが至る所にあり「原爆」について考えることがほかの地域よりも多いと感じます。

また、長崎県民の「反原爆」への想いというのは県外から来た私のようなものから見ると、やはりレベルが何段も上だよな、と思うことが度々あります。日本人でも核兵器をどれほど深刻に考えるかと言う点については、地域によって、温度差が有るのだと思います(「なぜ原爆が悪ではないのか」の著者の宮本さんも広島の方です)

そして、その温度差の理由は日々原爆と接していない多くの日本人にとって、「核兵器」が身近に無いから「忘れている」だけです。

そういった点では、日々の生活で「核兵器」と付き合い、「痛み」から逃れようとしているアメリカ人と比べて、多くの日本人はアメリカ人よりも「核兵器についてあんまり考えていない」ということも、言えてしまうのかもしれません。

私たちはアメリカ人が核兵器について、あまりにも軽く考えることにギョッとしてしまいますが、そう考えると、多くの日本人もアメリカ人を馬鹿にしたり、怒ったりする資格なんて実は無いのかもしれません。「軽く考える」という思考法と「全く考えずに時々思い出す」ではどちらが「偉い」のでしょうか。少なくとも、長崎県外からきて、長崎に住んでいる私はあまり核兵器について偉そうに言えないよなぁ、と感じています。

アメリカ人にとっての核兵器についての考え方を、「なぜ原爆が悪ではないのか」を読んで、少しだけ掴むことが出来たように感じたのですが、同時に、日本人にとっての原爆の考え方についても上記の通り私は考えさせられました。映画の予習として読み始めた本ですが、今後、「日本人として核兵器にどう接するか」を考えていく時の視点をいくつか得ることが出来たとおもいます。

さて、映画「オッペンハイマー」に関する話も。

この本を読んで映画の内容について一つ予想しました。

上述の通り、アメリカ人にとって核兵器は「太平洋戦争の終わりに使われたもの」というよりも「冷戦を共に過ごしたもの」というイメージなのではないかと思います。

そうであるなら、映画の中で「核兵器」というものに関する何らかの葛藤が描かれるとしたら、それは「原爆が投下されたこと」ではなく、「核兵器と共存していくこと」なのではないか、と予想します。

こんな予想を立てた上で私は「オッペンハイマー」を観たいと思います。映画でアメリカ人なりの核兵器に関する考え方や葛藤を観ることが出来れば良いなと思います。

なお、あと一冊は映画の前に読もうと思ってます。

オッペンハイマー、早く観たいですね。

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