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感想と考えたこと『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』

感想

『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を読みました。著者の1人である田野氏がナチスに関するデマをひたすらに訂正していく様が話題を呼んだこともありかなり売れているようです。私もミーハーな読者の1人ですが、一般向けに内容も平易に書かれており、ブックレットの形式で読みやすいとはいえ、このようなアカデミックな内容の本が話題になり売れるというのはSNSの力を思い知らされます。本書を読んだ上で考えたことがいくつかあったので整理する意味も込めてこのnoteを書いています。
まず、ざっくりとした感想としては良い本でした。特に中高生やませた小学生なんかには読んでほしい本です。本の中でもナチスを肯定した小論文を書いた高校生の話がありましたが、世の中をナナメに見ることを覚えたばかりの学生というのはそういうことをしがちな印象です。そういった逆張りの為の逆張りという姿勢はそれ自体だけではあまり価値のあるものではありませんが、既存の価値観や社会の構造を批判的に考察することへは地つづきな側面もあり、様々な価値観や立場を踏まえた上で一つの思想的試みとしてそれ自体を目的とした逆張りを行う事には価値があるように思います。その為の最初の一歩としてこういった本から歴史学に文字通り入門し本書でも触れられていたカーの『歴史とは何か』を読んでみるというのも面白そうです。
本書では、ナチスを題材にその政策が「良いこと」だったのかを検証していきます。歴史学における基礎的な構造である事実・解釈・意見にレイヤーを分けてその政策がどのようなものだったのかを政策の表面的な概要からその歴史的な文脈、結果社会に何を齎したのか等順を追って見ていく、というものです。わかりやすく平易な文章ながら内容も豊富で勉強になる事も多かったのですが、それ以上にこの本を読んで、というよりもタイトルを目にしSNSでの田野氏を見ていた時から考えていることがあったのでその内容について書いていきます。

「良いこと」をどう考えるか。(語尾が変わります。すみません。)
〜我々は何故これほどまでに話が噛み合わないのか〜

まず、タイトルにもある通りこの本の主目的はナチスによって行われた様々な政策が「良いこと」だったのかどうかを検証していくことであり、それは著者のTwitter上での言動からも疑いようがない。その上で一つ疑問として浮かぶのが「良いこと」とはなんだろうか、というものだ。これこそが本書のタイトルに反感を持ったり、SNS上でナチスを熱心に擁護するような人が多く現れる原因なのではないだろうか。本書では、ポリコレ批判の文脈から上記のような態度を取る人々が現れていると考察しているが、より根本的な問題として「良いこと」の問題があり、寧ろポリコレに対して批判的であったり懐疑的な態度を取る人々の存在に対してもこの「良いこと」の問題が大きく関わっているのではないだろうか。
最初に、本書の中でどういった意味で「良いこと」という言葉が使われているかを考えてみる。
本書では、第四章の冒頭にて一般的に「ナチスは良いこともした」と述べられる場合にどういう含意があるのか考察がなされており、その場合にはその政策のオリジナリティと目的、結果についての含意があるとしている。しかし、ここでは「良いこと」とは一体なんなのかは明示されず、この主張をする人々にとっての「良いこと」とは何なのかも捨象されてしまっている。ここに、本書に納得しない人々との相容れなさがあり断絶があるのではないか。もっと言えばアカデミア等の所謂リベラルな価値観を有する人々とそれに反する人々とのズレもここに大きな要因があるように思う。
それでは、「良いこと」についてひいては「良い」という事について考えてみよう。引き続き、本書の中でどのような意味で使われているかから見ていく。

本書の中で「良いこと」という言葉以外に関連する言葉として「肯定的」・「善悪」などの言葉が使われている。ここからわかることは、「良いこと」というのは道徳や倫理、それに関することであるということだ。誰かにとって都合が「良い」、のような意味ではまずない。これは当たり前のようでいてそうではない。少なくない人々が立場によって全く相容れない正義(善)があり、その正義とはその立場にとって都合が良いことであると考えているからだ。この時点で既にこのように考えている人々と社会一般的な倫理、正義の原理のようなものを想定している人々とは徹底的にズレが生じていることがわかる。この問題にはのちに触れるとして一旦話を元に戻す。まず、本書の中で「良いこと」というのは道徳的な善悪の問題であり、社会一般において肯定されるようなものである事がわかった。加えて、本書では繰り返しポリティカル・コレクトネスについての言及があるがポリコレに触れられる場合、それに反発する人々の批判対象として描かれている。ここで、本書における「良いこと」が大まかにではあるが理解できる。本書ではナチスを擁護する人々をポリコレ批判の文脈からその一形態であると置いている。それはつまりナチスを擁護する(「良いこと」もしたという主張)ということはポリコレを批判することであり、その態度を批判している本書はナチスは「良いこと」をしていないと否定的評価を下しその「良いこと」かどうかの価値判断はポリコレ的な道徳体系に一定程度沿うものであるはずだからだ。ここで、表現を明確にし整理しよう。何者かが対象に対して「良いこと」と判断をする場合その対象に対して「良い」かどうかを「法則」に基づき価値判断を行う。ここで重要なのはそれがどのような法則で如何にして「良い」ということを判断するのかどうかだ。この表現に合わせると本書は「良いこと」というものをポリコレ的なものに一定程度沿った道徳規範に基づき良いか否かを判断するという事になる。
それでは、翻って本書の内容(やタイトル)に否定的な人々は「良いこと」をどういう意味で使っているのか、つまりどのような法則に基づき良いか否かを判断しているかだが、これは非常に多様なはずだ。先述したように良いかどうかは立場によって明示的に異なりそれは単に「都合が良い」(主体にとって効用が存在する)という意味であることもあれば功利主義や卓越主義を代表するような目的論的な規範概念の可能性もある。このような認識の齟齬、これこそが本書のタイトルに反感を持ちナチスを擁護しポリコレを否定する人々が多く現れる原因の大きな一つではないだろうか。
話があちらこちらに脱線してわかりにくくなってしまっているのでまとめると、まず前提として何故本書はSNSでこれだけ話題になったのか(つまり反感を読んだ)という疑問があった。それに対して私は各人の「良いこと」への認識が全く異なっているということが原因の一つだと示した。そして、その齟齬はより大きな問題としてポリコレ的なものへの批判的態度の原因でもあると考えている、ということだ。
そもそもの前提が違うのだから、話が噛み合わないのは当たり前の話である。この認識のズレをまずお互いに認識し合いその上で建設的な議論が必要ではあるが、ナチスを擁護する人もポリコレ的なものを受け入れない人々も基本的に意見が異なる人の意見を聞く耳を持たない場合が多くそもそも立場が異なれば意見が異なるのは当たり前でそこに話し合う余地はないと思っているように考える人も多そうだ。それに、逆はどうかと思いポリコレ的規範にある程度親和性のある人々はというと、その道徳規範を上から目線で押し付けがましく一方的に伝えているようにも見える。実際、正しいものは正しいのだろうがただ押し付けるだけではなくその正義の体系を説明し啓蒙しなくてはならない。永久革命としての民主主義ではないが、民主的でより社会を正しさが包括するような社会を構築していく為には相互の理解がまず急務に思える。

政策における道徳的・倫理的な価値判断について

前段で最後ざっくりまとめておいて何だがもう少しだけ文章はつづく。noteを書くうちにこの章名?のような事も考えるようになったので、自分の思考の整理のためでもある。先ほどまでの「良いこと」についてもう少し発展させてみたい。まず、今までにおいて考えたことは「良い」ということはどのように判断されるのかということを整理した上で、その価値判断の法則が個人間で異なる上にそもそもその認識がなく齟齬が生じてしまっておりディスコミュニケーションになってしまっているということだった。ここで更に考えたいことは、その法則における価値判断を如何にして行うのかということだ。何故そのような事を考えるのか。先ほどまで、価値判断の法則が異なることそしてその認識が無いことが話が噛み合わない、つまり建設的な議論が行えない問題の原因の一つだと考えた。それ自体は確かにそうだが、加えてその法則の適用の仕方においても齟齬が生まれる可能性が存在することについて考えたい。何故そのような事を考えるのかというと、全く同じではないにせよ近しい倫理規範を持つ人々の中でも事象に対する価値判断が異なることがある(当然、倫理規範の僅かな差によるものではない場合の話である)。本書の内容と関連させれば以下のようなものがある。ある政策においてその政策は道徳的な目標を掲げて実施されたが、その政策を実施した主体である政権はその道徳的な目標を包括するような非道徳的な更に大きな目標を掲げておりその政策はその一部として機能している場合等だ。このような事例では、対象に対する価値判断が同一の道徳規範の中で複数の見解を論理的可能性として有する。つまり同じ規範において対象の価値判断を行う場合にも複数の立場が可能性として存在することになる。先ほどの例ならば、まず第一に本書の立場である、その対象は直接的な政策の目的が道徳規範に則ったものであったとしてもより大きな目標の中で非道徳的なものの中に包括されるのだからそれをもって道徳的とは言うことができない、つまり非道徳な大きな枠組みの中でその一機能として成立する部分的に直接は道徳的なものは非道徳的であるという立場。それに対しSNS上で本書のタイトルや内容に批判的な立場の人々が取る立場として、総体としては非道徳的であるが、その一部機能を道徳的であると是々非々に価値判断する事が可能であるというものがある。この二つの立場はそれらに共通する道徳法則によりどちらかへと導かれることはあるだろうか。互いの立場は論理的可能性としてはどちらも互いにあり得るものだ。この場合、その是非はそれらに共通である道徳法則により模範的であるものが選択されると考えるのが自然だ。まず、第一の立場では本書の中でも田野氏のSNS上でも度々主張されているが非道徳的なものの連関の中にある直接は道徳的なものをそのまま道徳的であると評価することの危険性を論じている。これは非常に重要な点であり、特に政策や事件、思想の背景を重んじる歴史学の立場においては尚更そうかもしれない。
では、翻って逆の立場はどうか、こちらにも当然良い(意義があるくらいの意)面はある。例えば、私は最初にこの問題について考えた時、資本主義の果実についてどう考えるべきか、ということに思い至った。資本主義は搾取により成り立つ非道徳的な構造であり生産様式でありイデオロギーである(納得できない方も一旦これについては棚上げして欲しい)。しかし、ポスト資本主義においてマルクス主義では資本主義の果実、つまりその技術や生産諸力を捨て去ろうとは主張しない。むしろそれらを共同の運営の元により発展させようとすらする。このような事例では、大きな枠組みとして非道徳的なものがありその中に機能する直接道徳的なものを是々非々でそれ自体評価するという思想的営みに価値はあるのではないだろうか。
このいずれかの立場を共通する道徳法則において普遍的に選択することは可能なのだろうか。私には難しいように思う。それではどっちもどっちで、個人の主観的なものに依るのだろうか。究極的にはそうかもしれないし相対主義の極北で思弁的可能性を探ることも可能かもしれないが、今までの議論が根底からひっくり返ってしまうので一旦その問題は棚に上げる。それでは他にはどのような可能性があるのか、この場合二つ考えられる。一つは全く別の新しい法則が二次的に適用されるというもの。もう一つは、普遍的な立場は決定されえないものの個別的な事例において既存の法則に基づき立場が判断される、というものだ。一つ目については挙げたもののあまり意味のない論理的可能性にすぎない。これは前提に内包されていない法則を想定しているが、実質的には立場の相違における選択可能性の法則を既存の道徳法則に内包することに矛盾がない場合はその法則に包括することが可能である為、その時点で法則が更新されて二つ目の場合と同義になるためである。それでは、二つ目の可能性について考えてみよう。これはつまり価値判断の基となる道徳法則によって立場が個別的に入れ替わるという事を意味する。それはどっちもどっちと変わらないじゃないかと思う人もいるかもしれない。それは全くの誤解である。どっちもどっち論は個人の主観に依るがこちらは既存の法則に依るからだ。こう整理してみると、非常に簡潔になる。ある主体がとある道徳規範に基づいて対象の価値判断を行う場合において、対象が直接的には道徳規範に則ると判断出来るもののその対象が、非道徳的だと規範において判断する大きな枠組みの部分であった場合はその対象とそのより大きな枠組み、そして対象がいかに直接的に道徳的かと判断可能か、枠組みの中での果たす役割、その枠組みが何故非道徳的と判断可能か、そしてそれぞれの立場に立つことによる社会への影響、これらについて検討した上で道徳規範に基づいて判断を行う。あまり簡潔ではないかもしれないが、上記のように整理することで近しい倫理規範、道徳法則を持つ人々の間のディスコミュニケーションの原因が明らかになったのではないだろうか。つまり、普遍的に立場を決定することがナンセンスであるにも関わらずポジションを固めようとすることに問題の原因があるのではないか。例えば、ナチスの問題であるにも関わらず、資本主義や共産主義、もっと言えば日本維新の会や自民党、これらに一貫した立場を選択することは不必要どころか寧ろ個別的に検討することこそが既存の法則に一貫しているにも関わらず絶対的な立ち位置を定めようとする。これこそが、道徳法則を共にする場合におけるディスコミュニケーションの原因ではないだろうか。もちろん、共通の道徳法則を有しディスコミュニケーションが解消されたとしても意見に相違がなくなりはしないだろう。しかし、その意見の相違こそ、対象をより精査し場合によっては道徳法則そのものを改善するような建設的な議論になっているはずだ。

おわりに

長々と冗長かつ体系的でない文章を書いてしまったが、個人的には色々と考えることが出来て良かった。そのきっかけになった本書をもしこの文章を読んだ上で購入していない奇特な人がいれば是非買って読んでみる事をお勧めする。加えて、この本を読んで改めて読み返したくなった本が『歴史とは何か』、『正義論』当たりだったので読んだことがない方は読んでみてもいいかもしれない。
また、個人的には田野氏のデマ訂正への飽くなき情熱は尊敬に値すると思っている。クソリプ的に見える人もいるだろうが、ナチスに関するデマに関しては訂正する意味がある。私は、無知であること、事実を誤解したままでいる自由を人間は有していると思う。しかし、それは上記で明らかにした通り是々非々であり知らないままでいることが道徳的に問題のない場合と知らなければならないことに別れる。
当然、ナチスにおけるデマ的な言説は後者である。

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